フィンランド正教会 (フィンランド語 : Suomen ortodoksinen kirkko , スウェーデン語 : Ortodoxa kyrkan i Finland , 英語 : Finnish Orthodox Church )は、世界の正教会 とフル・コミュニオン の関係にある自治正教会 の一つである。信徒数は約6万人でこれはフィンランド の人口の1%強であるが、正教 はルター派 に次ぐフィンランド の国教 と位置付けられ、フィンランド福音ルター派教会 と同様に国家からの財政補助を受けている[1] 。
正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(フィンランド正教会以外の例としてはギリシャ正教会 、ロシア正教会 、ルーマニア正教会 、日本正教会 など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義 を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している[2] 。
正教会の教義や、全正教会に共通する特徴については「
正教会 」を参照
歴史
フィンランドにおける正教 の歴史を概観する。
ただしフィンランド正教会の草創は、帰属が著しく変動したカレリア 地方を中心としている。カレリアは中世から近世にかけてはスウェーデン王国 とノヴゴロド公国 (ノヴゴロド共和国)との間で、近代以降はスウェーデン ・フィンランド大公国 ・ロシア帝国 との間で国境 の変動の大きかった地域であった。現代における国家としてのフィンランド共和国 の領域と、本項で用いる「フィンランド」が指す領域は、必ずしも一致する地域を指すわけではない。
初期の伝道
1167年 にカレリア人 によって描かれた、聖大致命者凱旋者ゲオルギイ のフレスコ画 イコン 。
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12世紀 というほぼ同時期に、フィンランドにおけるキリスト教 は東西教会 の両方から伝えられた。正教はカレリア 地方へのルーシ からの修道士を通して、カトリック教会 はスウェーデン からの宣教師によって、それぞれ伝道された。フィンランド人の大多数はスウェーデンから伝道されたカトリック教会を信仰するに至ったが、カレリアにおいてはルーシ (ノヴゴロド )と隣接する地理関係により正教が浸透した。
ヴァラーム修道院 を創健したと伝えられる、ギリシャ人 修道士 聖セルギオスと、その協力者であったカレリア人聖ゲルマンのイコン 。
草創期においてはラドガ湖 のヴァラーム島にあるヴァラーム修道院 が、その創立年代に関する様々な推測がなされているものの、フィンランドにおける正教の伝道にあたって大きな役割を果たしたとされている。またヴァラーム修道院の働きを強めるため、コネヴィツァ修道院 がラドガ湖の別の島に建設された。創設者の修道士アルセニイはロシアの修道士であり、アトス山 での数年間の修道生活の経験があった。
16世紀にはカレリアのみならず北フィンランドにも伝道が行われ、修道士トリフォン によりラップランド に多くの教会が建てられた。1533年にはペツァモ に修道院が建てられた。またトリフォンは修道士テオドリト と協力し合い、ラップランド語への聖書および祈祷書の翻訳も行った。1583年にトリフォンは永眠した。
東西教会の狭間
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東西両教会 によりほぼ同時期に宣教が行われ、さらにロシア (ロシアが統一国家としてまだ成り立っていない時期にはノヴゴロド共和国 )とスウェーデン という強国に挟まれたフィンランドは、信教の面でも東西両教会の前哨・狭間となった。この事により、正教 は西方教会 を奉じる国家権力から弾圧を受けることもあった。
聖アレクサンドル・ネフスキー のイコン
12世紀 ・13世紀 には西方教会に属するスウェーデンによる十字軍 (北方十字軍 )がフィンランドに対して行われた。その最初のものは1155年 に行われ、さらに1239年 と1293年 にも侵攻が行われている。これによりフィンランドの大半がカトリック教会 の傘下に入った。1240年 にはカトリック教会のフィンランド司教 トマスが、スウェーデン軍とフィンランド軍を率いてノヴゴロド共和国を攻撃している。ネヴァ河畔の戦い はこの頃の、スウェーデン軍を迎え撃つアレクサンドル・ネフスキー 率いるノヴゴロド軍という構図の中で起こったものである。こうした経緯からカレリアでは、アレクサンドル・ネフスキーは聖人 として格別の崇敬を集めている(現代ロシア正教会 においても同様に格別の崇敬がなされている)。
カレリアはノヴゴロド共和国 がスウェーデンから防衛することに成功したが、北フィンランドはスウェーデン領となった。16世紀 末には、トリフォンが建てたペツァモの修道院がフィンランド人兵士により1590年 に完全に破壊され[5] 、修道士も全員が殺害された。
ノヴゴロド共和国のもとのカレリア
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フィンランドの大半がカトリック教会を奉じるスウェーデンに編入されたのに対し、カレリア 地方のみはノヴゴロド共和国 に最終的に編入されることとなり(1323年 )、正教圏に入ることとなった。ただし教会の実態はノヴゴロド大主教からは半ば独立していた。1400年 までに、カレリアには7教区が設置され、それぞれの教区にいくつかの教会・聖堂が所属していた。
カレリア地方における正教の発展・展開は非常に緩やかなものであったが、16世紀にはノヴゴロド大主教マカリイにより、異教的要素から正教を純化しようとする精神的刷新が図られた。マカリイ大主教は1534年 にロシア人修道士イリヤをカレリアに送り、異教のカルト的習慣を根絶することを命じた。イリヤは組織運営の能力と説教において有能な修道士であり、異教の習慣はカレリアから消えるに至った。
スウェーデンのもとのカレリア
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1617年 、カレリアの大半の領域がルター派 を国教とするスウェーデンに領有された。このことによる狂信的な空気の醸成により、カレリアにおける宗教的闘争が、ルター派 から正教会に対して始められることとなった。3分の2の正教徒 がロシアに逃れ、少数はルター派に改宗したが、困難な情勢下にあって残りの正教徒は自分達の信仰を守った。
ロマノフ朝時代
黄昏時の生神女就寝大聖堂
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1721年 にカレリア の大半がロシア帝国に領有され、1809年 には全フィンランドがロシア帝国領となったことにより、18世紀 ・19世紀 を通じてカレリアの正教会 も回復されていった。これに伴い教会組織もロシア正教会 のもとに入った。
19世紀 末に入ると、ナショナリズム がカレリアにも広がった。これはロシアにおける汎スラヴ主義 に対応するものであり、カレリア人 ・フィンランド人 は自らの民族的アイデンティティの模索を始めた。一般にロシアの宗教として捉えられていた正教を自分達の教会として民族化(ナショナライズ)するため、カレリア人・フィンランド人は教会スラヴ語 に代えてフィンランド語 を奉神礼 の言語として採用し、奉神礼における祈祷書や正教関連の文学作品をフィンランド語に訳していった。これらの動きに当初はロシアも寛容に受け止め、1892年 にはフィンランド教区が設立された。しかし教区設立直後からロシア側の態度は硬化し、カレリア、フィンランドの教会は抑圧のもと苦難の道を歩むこととなった。
ロシア革命後の自治教会成立とその後の承認関係
[9]
1917年 にロシア革命 によりフィンランド が独立すると、フィンランド教会は自治教会 としての地位を宣言した。
フィンランド正教会におきていたナショナリズム的な動きを支援し、ロシアへの留学に頼っていた聖職者の養成を国内で行えるよう、フィンランド政府から1918年 から援助が行われ神学校が設立された。
フィンランド教会の自治教会 としての地位は、モスクワ総主教 ティーホン により1921年 に承認された。しかし1923年 にフィンランド正教会がコンスタンディヌーポリ総主教庁 の庇護下に入ることを決定すると、1924年 にモスクワ総主教からのフィンランド正教会の自治正教会位承認は破棄された。
その後長い間、フィンランド教会はモスクワ総主教からの自治正教会位承認の回復にむけて外交努力を行っていたが、1957年 に、モスクワ総主教はコンスタンディヌーポリ総主教の庇護下にあるフィンランド正教会の自治正教会位を承認した。
国教承認・冬戦争および継続戦争
新ヴァラモ修道院 の主聖堂(ヘイナヴェシ:Heinavesi 、フィンランド)
[9]
両大戦間期に、フィンランド正教会は二番目の国教 としての承認を国家から得た。フィンランド正教会は財政上の支援を国庫から受けることとなり、これに伴い、世俗の行政と調和させるために教区の再編成が行われた。
1940年 代、冬戦争 ・継続戦争 の戦禍やモスクワ講和条約 による国境変動に伴い、ソ連政府による宗教弾圧政策を避けるためなどの理由から、約70%の正教徒がカレリアからフィンランドに亡命した。旧ソ連当局による宗教弾圧を避けてヴァラーム修道院から移住を余儀なくされた修道士 達はフィンランドのヘイナヴェシ (Heinavesi )に移り、当地に新ヴァラモ修道院 を設立した。これは現在も存続し、フィンランド正教会の重要な修道院 となっている。
現況
リントゥラ至聖三者女子修道院 の教会
[1] その後、フィンランドの二つ目の国教となったフィンランド正教会は、順調に教会活動を継続し発展している。現在、フィンランド正教会の信徒数は約6万人。新ヴァラモ修道院 とリントゥラ至聖三者女子修道院 の、二つの修道院 がフィンランド正教会に存在する。教区は3つとなっている。
黎明期にあって大きな役割を果たしたヴァラーム修道院 は、ソ連 時代には共産主義 政権による宗教弾圧政策により閉鎖されていたが、現在ではロシア連邦 の領土内にあって再開されている。ただし所属はロシア正教会 である。
[10] 日本人正教徒イコン画家であるペトロス佐々木巌 はフィンランド正教会で活躍し、多くのイコンを聖堂等のために描いた。一部作品は日本正教会 にも献納されている。
この他に、ロシア正教会 所属の教会がフィンランドにいくつか設立されており、こちらに所属する信徒数は約2000人となっている[11] 。
主教区
首座主教 はカレリア および全フィンランドの大主教 の称号を持つ。フィンランド正教会は以下に挙げる3つの教区 で構成されている。
ギャラリー
分類
正教会 (ギリシャ正教 、東方正教会 ) — 正教会の洗礼・聖体機密(聖体礼儀)を含む機密(秘蹟)は全ての正教会で有効。「ルーマニア正教会」「ロシア正教会」は組織名であり、一組織を信仰するかのような「ロシア正教を信仰する」「グルジア正教を信仰する」といった表現は誤りである。
脚注
参考文献
Edited by Veikko Purmonen『ORTHODOXY IN FINLAND PAST AND PRESENT』Orthodox Clergy Association Kuopio, Finland (1981) ISBN 951-95582-1-7
関連項目
外部リンク