二階堂 行貞(にかいどう ゆきさだ)
- 鎌倉時代後期の武士・政所執事。二階堂行宗の子。本項以下にて詳述。
- 室町時代前期の武士(生年不明 - 応永18年(1411年))。二階堂直行の子。
二階堂 行貞(にかいどう ゆきさだ)は、鎌倉時代後期の武士。鎌倉幕府政所執事[2][3]。
生涯
文永6年(1269年)、二階堂行宗の子として誕生。
北条氏得宗家当主・9代執権・北条貞時より偏諱を受けて行貞と名乗ったものとされる[注釈 2]。行貞の父・二階堂行宗は引付衆まで進んだが、その父・行忠に先立って弘安9年(1286年)に没しており、正応3年(1290年)の行忠の没後は孫の行貞が22歳で政所執事に就任した[2][3][4]。その人事は単に家を継いだだけに等しかったが、その頃は弘安8年(1285年)の霜月騒動によって得宗家被官・内管領の平頼綱が実権を握っていた時期にあたる。
それから3年後の正応6年(1293年)に北条貞時が平頼綱を討ち(平禅門の乱)、頼綱時代の人事を否定し、霜月騒動以前の父・北条時宗の時代への回帰を計る。その煽りを食らったのか、行貞は同年10月に政所執事の職を罷免される[2][注釈 3]。そしてこれまでは政所執事を輩出しなかった隠岐流[注釈 4]から二階堂行藤(出羽備中家)が10月19日に政所執事となる。その後、二階堂行藤が乾元元年(1302年)8月に没すると、3ヶ月の空白期間をおいて行貞が再任される[2][3][4]が、この空白の3ヶ月は得宗・北条貞時の元での人事の迷走及び信濃流の行貞と隠岐流の貞藤の対立の激しさを物語っている[8]。尚、この前年の正安3年(1301年)に行貞は出家している(法名は行暁[4])[2][3]。
そして行貞が『吾妻鏡』の編纂者の一人と目されているのだが、行貞の祖父である行忠の誕生[9]を『吾妻鏡』に書き込んだのが行貞だとするならば、それは単なる自分の先祖の顕彰を越えて、二階堂行藤とその子・時藤の隠岐流に対して、二階堂行光、行盛から行忠、そして自分へと繋がる政所執事の家系としての正当性を主張するものとして十分な動機が推測される。
嘉暦4年(1329年)2月2日、61歳で没する[2][3][4]まで政所執事を務め[3]、没後その職は嫡子・貞衡[2]が継いだ。
尚、もう一人の息子・行広の子が鎌倉時代後期に登場する二階堂行光であり、その子孫は六郷氏を称した。
脚注
注釈
- ^ 『鎌倉年代記』(乾元元年の条)から嘉暦4年(1329年)に61歳で死去したことが窺えるため、逆算すると生誕年は文永6年(1269年)となる。
- ^ 『鎌倉年代記』の記述から算出した生誕年(文永6年(1269年))に基づくと、元服した年次はおおよそ1278年~1283年の間と推定することができる。しかしこれはあくまで元服の年齢を10歳~15歳と仮定したものであり、その前後に行う事例もあったので、1284年より執権となった貞時と烏帽子親子関係にあったと考えて差し支えはない。貞時在任中は得宗家当主(貞時)から一般の御家人へ「貞」の字が下賜される図式が成立していたことが論文で指摘されており[6]、嫡男の貞衡と親子二代に亘って「貞」の字を受けたことが、貞時が就任してまもない頃に偏諱を授与されたことを裏付けていると言える。
- ^ その後まもない永仁元年に上野佐野荘内板倉郷を伊豆走湯山東明寺に寄進している[7]。
- ^ 二階堂行村の系統。
出典
参考文献