大和新庄藩(やまとしんじょうはん)は、大和国葛上・葛下二郡(現在の奈良県葛城市新庄)に存在した藩。旧称を布施藩(ふせはん)と言う。
藩史
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いから程なくして、紀伊和歌山2万石の領主桑山一晴が同石高で移封して布施藩を立藩する。慶長10年代に現在の葛木あたりに新たな陣屋と陣屋町(城下町)を構築し、そこを新城村と定める。後に新庄村と改名したため、藩名は新庄藩となった。
一晴は2万石のうち、4000石を祖父の重晴に隠居料として分与したため、1万6000石となる。一晴の死後は桑山一直が継ぐ。一直は慶長19年(1614年)の大坂の陣にて徳川方として戦功を挙げたため、戦後に加増移封を約束されたが、元和2年(1616年)12月12日に旗本の別所孫次郎と同氏の屋敷で会談中に、客であった同じく旗本の伊東治明と孫二郎との喧嘩を仲裁したが、伊東治明は殺害され一直も負傷した。この事件の責任を取らされる形で閉門処分となり、加増の約束も破棄された。なお、一直は所領1万6000石のうち3000石を一族の桑山貞利に分与している。
一直の跡を長男の一玄、一玄の跡を長男の一尹が継いだが、一尹の時代の天和2年(1682年)5月、寛永寺において亡き将軍徳川家綱の法会の際、勅使に対して不敬があったとして改易された。
これより先の延宝8年(1680年)6月に丹後宮津藩主永井尚長と志摩鳥羽藩主内藤忠勝との間で刃傷事件が起こり、共に改易された[1]。この事件は尚長と忠勝の不仲が原因ではあるが、事件の際に内藤忠勝が一方的に斬りつけたとされ、同年8月に永井尚長の弟の直円に大和国葛上郡などにおいて1万石を与えられ、永井家の家名再興が許された。しかしこの時期にはまだ同地に桑山家が存続しているため、永井家の再興・入封時期に疑問が残るところがある。
桑山家の陣屋は改易時に破却され、また、永井家時代の陣屋は新庄から2km離れた葛上郡松本村(現在の御所市)に存在していたため[2]、城下町としての政治的役割を失った新庄の町は高野街道の宿場町へと転換されていった、とする指摘もある[3]。
永井家の歴代藩主の多くは幕府の職制において大番頭や大坂定番を務めている。第8代藩主永井直壮は文久3年(1863年)に幕府による文久の改革の余波を受ける形で陣屋を櫛羅に移転し、以後の永井家は櫛羅藩として存続した。
歴代藩主
桑山家
外様 2万石→1万6000石→1万3000石→1万1000石
- 桑山一晴
- 桑山一直
- 桑山一玄
- 桑山一尹
(改易へ)
永井家
譜代 1万石
- 永井直圓
- 永井直亮
- 永井直国
- 永井直温
- 永井直方
- 永井直養
- 永井直幹
- 永井直壮
(大和櫛羅藩へ)
脚注
- ^ この内藤忠勝の縁戚に、同様の事件を起こし改易となった浅野長矩(赤穂事件)がいる。
- ^ 奈良県立図書情報館所蔵文書の中にある文化2年8月付の借金証文の中に、「永井様松本御役所」の御用を勤めることを理由とした忍海郡脇田村の住人の借用証文が現存している(田中、2013年、P339)。
- ^ 田中慶治「国人の城郭と近世陣屋・陣屋町 -新庄陣屋・陣屋町の成立と展開-」『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4(原論文:2005年))
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関連項目 | |
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藩庁の置かれた地域を基準に分類しているが、他の地方に移転している藩もある。順番は『三百藩戊辰戦争事典』による。 明治期の変更: ★=新設、●=廃止、○=移転・改称、▲=任知藩事前に本藩に併合。()内は移転・改称・併合後の藩名。()のないものは県に編入。 |