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松下 賢次(まつした けんじ、1953年3月2日[1] - )は、日本のアナウンサー。東京都港区青山生まれ[2]。血液型はO型[1]。身長164cm体重84kg[1]。
1975年から2008年までTBS(東京放送→TBSテレビ)でアナウンサーとして活動[2]。TBS時代はアナウンスセンター部長[3]、編成制作本部編成局アナウンス部スペシャリスト局次長、TBSアナウンススクール初代[4]校長[3]、クリエイティブ・メディア・エージェンシー(CMA)取締役[5]、東京放送(2009年4月より東京放送ホールディングス(TBSHD))経営メディア本部経営企画局局次長、TBSメディア総合研究所取締役上席研究員などを歴任した。
2013年にTBSを定年退職し、4月よりフリーアナウンサーに転向。個人事務所・UPOFFICE(ユーピーオフィス)を立ち上げている。
自称および通称「世界の松下」(せかいのまつした)[3][6][7][8]。TBS社内報では「世界のマツシタ」と表記されたことがある[9]。「世界の松下」については、ただのシャレであり新聞の見出しの様なものであることを明かしている[3]。
TBS時代には、大正大学客員教授も務めていた。東京プロ野球記者OBクラブ[注 1]会員[10]。
来歴
港区立青南小学校、港区立青山中学校[11]、慶應義塾志木高等学校、慶應義塾大学経済学部を卒業[12]。
TBSアナウンサー時代
1975年4月にTBS(東京放送)[注 2]へアナウンサー15期生[13][14]として入社(2004年10月、当時の企業再編に伴い、ほかの全アナウンサーとともにTBSテレビへ現職出向[注 2])。
同期の宮澤隆(15期生はこの2人のみ[13][14])とともにスポーツ実況(担当競技は、野球・ラグビー・サッカー・テニス・陸上競技・水泳[14])[注 3]を中心に活躍。その傍ら、1986年10月2日から音楽番組『ザ・ベストテン』の司会を黒柳徹子とともに務めた。1989年1月5日に同番組の司会を卒業し、渡辺正行らに引き継いだ。松下は同番組の司会を2年3ヶ月間務めたが、これは久米宏に次いで2番目の長さである。
1990年のTBS開局記念特番『日本人初!宇宙へ』では、TBSのスタジオからの進行を木場弘子(当時・TBSアナウンサー)とともに担当。
1994年から2003年まで『ニューイヤー駅伝』の実況を務めた。人事異動となる2008年5月までは『マスターズ・トーナメント』などの実況(地上波放送のみ)を担当していた。スポーツ以外では、ドミノ倒しの実況も行っていた。
人事異動後
2008年5月14日付のTBS定期人事異動発令で松下は「編成制作本部編成局アナウンス部スペシャリスト局次長」から、「経営メディア本部経営企画局局次長」へ異動することが明らかになった[6][7][8]。これにより、松下は33年間のTBS局アナ生活に終止符を打った[6][7][8]。テレビでは、2008年5月15日にBS-i・TBSニュースバードで放送された横浜ベイスターズ対読売ジャイアンツ戦(横浜スタジアム)の実況がアナウンサーとして最後の担当だった。
同年7月5日TBSラジオで放送の『安住紳一郎の日曜天国』へ、安住紳一郎の強い希望によりゲスト出演した。放送の中で、松下は異動となった事実を話し、5月8日のTBSラジオ『エキサイトベースボール』(読売ジャイアンツ対阪神タイガース戦中継)から数日後に人事担当者から辞令を言い渡されたという。そして、ラジオ最後となった同中継の実況音源が流れた後、後輩アナウンサーの小林麻耶・小倉弘子・土井敏之・初田啓介の順で松下に対するメッセージが流れ、最後に松下は「今後ともTBSのテレビ・ラジオをよろしくお願いします」という趣旨の挨拶をして出演を終えた。
同年には、人財育成の為の学校「TBSビジネスカレッジ」を設立[2]。
2009年3月22日の『サンデージャポン』にワールド・ベースボール・クラシック絡みのゲストコメンテーターとして出演(肩書きは「世界のマツシタ」)。アナウンスの現場から離れてからは初めてテレビに顔を出す形となった。
2009年3月29日午後11時55分から30日午前0時10分に放送された『JNN50周年改編記念テレビ維新』内で行われた企画『TBS大改編記念ドミノ』において、実況として「TBSアナウンサー」の肩書きで出演した。
2011年3月21日 - 4月7日にはTBSチャンネルで放送の『マスターズ・オフィシャル・フィルム』へナビゲーターとして出演。番宣では顔出し出演となった。
同年には、TBSメディア総合研究所へ上席研究員として現職出向[2]、同社の取締役も務める[15]。また、東京プロ野球記者OBクラブ[注 1]へ入会[19]。
2013年3月に還暦を迎えるとともに、同月末をもって株式会社TBSホールディングスを定年退職[注 4]。
フリーアナウンサー時代
2013年4月よりフリーアナウンサーへ転身[注 5]。UPOFFICE(ユーピーオフィス)という個人事務所に所属し[21]、株式会社ノット・コミュニケーションズとマネジメント上の業務提携を結ぶ[22]。6月よりTOKYO MXのプロ野球福岡ソフトバンクホークス主催公式戦中継で実況を担当(初戦は、同12日の対東京ヤクルトスワローズ戦)[23]。7月より古巣TBSグループのCSテレビ放送であるTBSニュースバードの横浜DeNAベイスターズ主催公式戦中継で実況を担当(初戦は、同2日の対ヤクルト戦)[24]。
2014年には、TOKYO MXでの実況中継にて、ソフトバンクのリーグ優勝を実況した[25]。
人物
高校生時代は部活で落語をやっており、当時の高座名は『成田屋海老蔵』[26]。大学時代も慶應義塾大学落語研究会に所属した。
妻は、『ザ・ベストテン』司会当時、黒柳がユニセフ活動のため出演休止した際の代理として、JNN系列各局から参加した女性アナウンサーの一人で、テレビ高知のアナウンサーだった[3]。
2006年のワールド・ベースボール・クラシックにてこの大会不調だった福留孝介が準々決勝で代打で出てきた場面で「生き返れ福留」と実況した直後に福留がホームランを放ったというエピソードがある。
活動リスト
出演番組
※特記ない限り、TBSアナウンサー時代のもの。
テレビ
スポーツ中継
- プロ野球中継
- ゴルフ中継
- 陸上競技中継
- ラグビー中継
- サッカー中継(FIFAワールドカップ、オリンピック予選、Jリーグ)
- 格闘技中継
スポーツ中継以外
ラジオ
スポーツ中継
- TBSラジオ エキサイトベースボール(プロ野球。『エキサイトナイター』時代の1970年代後半頃からアナウンス職を離れる2008年5月までの間担当)
- ラグビー中継
- 『'85 ラグビー日本選手権』(1985年)で、第11回アノンシスト賞ラジオ番組部門最優秀賞を受賞[14]。
スポーツ中継以外
ウェブテレビ
ウェブ広告
出演映画
スポーツゲームでの実況
TBSアナウンサー当時、スポーツゲームソフトの実況担当として声の出演をしたことがある。
ハドソン(パワーリーグシリーズ)
セガ(グレイテストナインシリーズ)
- グレイテストナイン'96(1996年)
- プロ野球グレイテストナイン'97(1997年)
- プロ野球グレイテストナイン'97 メークミラクル(1997年)
- プロ野球グレイテストナイン'98(1998年)
- プロ野球グレイテストナイン'98 サマーアクション(1998年)
T&E SOFT(遙かなるオーガスタシリーズ)
- 遙かなるオーガスタ for Windows(1998年)
著書
- 語りつくせぬ"夢"マスターズ放送物語(2010年、TBSサービス)ISBN 4904345096 ※自身とマスターズ・トーナメント中継のかかわりについてつづった書籍。編集:宮井善一。
脚注
注釈
- ^ a b 参考…
- ^ a b 1951年5月にラジオ東京として会社設立。同年12月25日にラジオ放送局として開局。1953年12月よりKRTの略称を採用。1955年4月にテレビ本放送開始・ラテ兼営局となる。1960年11月29日に社名を東京放送・略称をTBSへ変更。以降、ラジオ局部門について「東京ラジオ」(1961年以降は「TBSラジオ」)と呼ばれるようになる。2001年10月にラジオ局部門がTBSラジオ&コミュニケーションズ(略称:TBS R&C)、2009年4月にテレビ局部門がTBSテレビへそれぞれ分離し、放送持株会社化(社名を東京放送ホールディングス・略称をTBSHDにそれぞれ変更)。TBSの略称はTBSテレビへ移行した。2016年4月にTBS R&CはTBSラジオへ社名変更。アナウンサーの配属先も、持株会社化を機にTBSテレビへ移行した(2004年10月のTBSテレビ発足時に東京放送在籍者が全て出向、2005年以降の新規採用者はすべてTBSテレビの在籍[41])。
- ^ 参考:
- 『TBS50年史』資料編では、“野球、ラグビー、テニス、陸上競技、水泳競技等”と記載[13]。
- ^ 次の資料より、2013年3月に定年退職の旨が記載…[20]
- ^ 次の資料より、定年退職後にフリーアナウンサー転身の旨が記載…[20]
- ^ 担当は、2015年6月10日のロッテ対中日交流戦[27][28]、2016年7月13日の対ソフトバンク戦[29]。
- ^ 参考:2004年[30]
- ^ 2013年[23]、2014年[31]、2015年[32]
- ^ 参考:
- テレビ担当番組として「ギミアぶれいく'92」と記載[13]。
- ^ 「プロ野球50年、男の熱闘(84年)」と記載する資料もあり[14]。
- ^ 参考:
- 次の資料より、ラジオ担当番組として「荒川強啓デイキャッチ」と記載[13]
出典
参考資料
- 『TBS50年史』(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館サーチの書誌情報
- 資料編
- 付録DVD-ROM『ハイブリッド検索編』に収録のPDFファイル
- 『TBSアナウンサーの動き』(ラジオ東京→TBSの歴代アナウンサーの記録を、同社の歴史とともにまとめた文書)
- 『all TBS 紳士・淑女録』第10回(1992年6月25日発行の社内報P28 - 35に掲載)の再録
- 各種外部リンク
関連項目
外部リンク
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- 石井智(1976年 - 1995年)
- 松下賢次(1996年 - 2008年)
- 林正浩(2009年 - 2015年)
- 小笠原亘(2016年 - )
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