松下電器産業サッカー部(まつしたでんきさんぎょうサッカーぶ)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。ヤンマーディーゼルサッカー部の選手が中心となり、松下電器産業(現パナソニック)のサッカー部として1980年に創部した。呼称は松下。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属のガンバ大阪の前身となったクラブである。
概要
創部
松下電器産業(現パナソニック)は野球部(1950年創部)、バスケットボール(1951年創部)、バレーボール(1952年創部)を既に有しており、サッカー部は4つ目のスポーツチームとして1980年に創部された[1]。前年に活動を休止したヤンマークラブ(ヤンマーのBチーム)の監督だった水口洋次を初代監督として迎え[2]、1980年4月7日に新チーム結成の記者会見が行われた[2]。この記者会見時点ではまだゴールキーパーも在籍しておらず、所属選手の内訳はヤンマークラブからの移籍組が5人、新卒選手が6人、大商大クラブから山本浩靖、そして社内選手が1人だった[2]。ヤンマークラブから加入したFW山口正信[2]、枚方FC出身の新卒MF佐々木博和[2] といった選手はチームがJSL1部に昇格後もなお主力としてプレーした。
県、地域リーグ時代(1980年-1983年)
松下電器産業サッカー部は、できるだけ早くトップレベルに上り詰めるために、カテゴリ構成が少なくかつ強敵がいない奈良県リーグからのスタートを選んだ[1]。創部1年目の1980年は奈良県2部リーグに参戦し優勝、1部へ昇格[1]。翌1981年は奈良県1部リーグに優勝したものの、関西府県リーグ決勝大会と天皇杯の日程が重なったことが災いして、関西リーグ入れ替え戦の出場権を逃した[3]。1982年は前年の反省から天皇杯よりも入れ替え戦を重視する姿勢で臨んだ[3]。1982年12月26日に行われた関西府県リーグ決勝大会の決勝では北摂けまり団戦に1-0で勝利[3]。1983年1月9日および16日に行われた関西リーグ最下位・三菱神戸との入れ替え戦に勝ち(1戦目1-0、2戦目0-0)関西リーグ昇格を決めた[3]。
1983年の関西リーグでは1位となり、全国社会人選手権にも優勝した。全国地域リーグ決勝大会では横浜トライスターに次ぐ2位となり、JSL2部との入れ替え戦に進んだ。JSL2部9位の東邦チタニウムとの入れ替え戦に勝利して(1戦目2-1、2戦目0-0)創部6年目にしてJSL2部入りを決めた[1]。
JSL時代(1984年-1992年)
JSL2部昇格初年度となった1984年は3位にとどまり昇格を逃したが、1985年は優勝してJSL1部昇格を決めた[1]。この年はFW山本浩靖がJSL2部得点王に輝いた。1986-87シーズンのJSL1部では降格圏内の11位に沈み、1年で2部に戻った[1]。
1987年には大学からGK本並健治、DF島田貴裕、DF和田昌裕を獲得[1]、かつてヤンマーでプレーしていたタイ人のビタヤ・ラオハクルがプレーイングコーチとして加わった[1]。1987-88シーズンのJSL2部では2位に入り、1年でJSL1部復帰を決めた。このシーズン、元韓国代表の崔徳柱(en:Choi Duck-joo)はJSL2部アシスト王になった。ビタヤの加入によって選手獲得は東南アジア路線がとられ、1980年代後半にはタイ代表DFナティ(en:Natee Thongsookkaew)、インドネシア代表FWリッキー(en:Ricky Yacobi)、タイ代表FWロナチャイ(en:Ronnachai Sayomchai)といった選手たちが在籍した。
1988-89シーズンは7位で残留し、和田昌裕が9アシストでアシスト王となった。1989-90シーズンは関西リーグ時代から在籍するFW永島昭浩が得点ランキング2位となる15ゴールを挙げベストイレブン選出されたものの、チームの順位は10位に後退した。新加入FWリッキーの怪我、大商大から加入した日本代表MF池ノ上俊一がチームがフィットできなかったことなどが低迷の要因だった[1]。
1990-91シーズンは初めて順位表の上半分となる12チーム中6位でシーズンを終えた。1990年度の天皇杯では決勝で日産自動車を下して、初めての主要タイトルを獲得した。試合は120分を終えてもスコアレスのまま、同大会決勝史上初めてとなるPK戦による決着だった[4]。
1991年、創部以来監督を務めていた水口が取締役強化部長に回り、水口のヤンマー時代の同期でもある釜本邦茂を監督に迎えた[1]。
略歴
過去の成績
年度 |
所属 |
順位 |
勝点 |
勝 |
分 |
敗 |
得点 |
失点 |
監督
|
1980 |
奈良県2部 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
水口洋次
|
1981 |
奈良県1部 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
1982 |
優勝 |
|
|
|
|
|
|
1983 |
関西 |
優勝 |
33 |
15 |
3 |
0 |
79 |
5
|
1984 |
JSL2部 |
3位 |
22 |
8 |
6 |
4 |
25 |
19
|
1985 |
JSL2部・西 |
_ |
18 |
8 |
2 |
0 |
26 |
6
|
JSL2部・上位 |
優勝 |
14 |
5 |
4 |
1 |
11 |
7
|
1986-87 |
JSL1部 |
11位 |
16 |
5 |
6 |
11 |
23 |
38
|
1987 |
JSL2部・西 |
_ |
25 |
11 |
3 |
0 |
51 |
7
|
JSL2部・上位 |
2位 |
20 |
9 |
2 |
3 |
24 |
8
|
1988-89 |
JSL1部 |
7位 |
29 |
8 |
5 |
9 |
26 |
30
|
1989-90 |
10位 |
19 |
4 |
7 |
11 |
24 |
31
|
1990-91 |
6位 |
30 |
7 |
9 |
6 |
24 |
26
|
1991-92 |
5位 |
29 |
7 |
8 |
7 |
25 |
27 |
釜本邦茂
|
タイトル
カップ戦
リーグ戦
ガンバ大阪と異なる点
ガンバ大阪は吹田市などの大阪府北摂地域を拠点に活動しているが、松下サッカー部は当初奈良県へ拠点を置き、スタートも奈良県リーグからである。その後、活動拠点は大阪府枚方市へと移された[3]。1983年10月、京都府田辺町(現:京田辺市)に練習グラウンドの田辺サッカー場が開場した[5]。このグラウンドはガンバ大阪となった後も、1997年に万博記念公園内に練習場付きクラブハウスが建てられるまでのあいだ練習場として引き続き使用されていた。
松下電器産業サッカー部に所属した主な選手
出典
参考文献
- 荒井義行「チームストーリー」『Jリーグ・ファン・ガイドブック パナソニック ガンバ 大阪』集英社、1993年。ISBN 4087801853。
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993年。
- 「始動した新生・松下電器サッカー部 水口洋次と13人のサムライたち」『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1980年5月25日号 No.237、90-91頁。
- 「'83年、注目の新星・松下を追う」『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1983年3月号 No.281、82-83頁。
- 「松下新サッカー場完成」『サッカーマガジン』、ベースボール・マガジン社、1983年12月号 No.290、28-29頁。
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†は中止となった大会 |
1920年代 | |
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1930年代 | |
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1940年代 |
- 第20回(1940) 慶應BRB
- 第21回(1941) †
- 第22回(1942) †
- 第23回(1943) †
- 第24回(1944) †
- 第25回(1945) †
- 第26回(1946) 東大LB
- 第27回(1947) †
- 第28回(1948) †
- 第29回(1949) 東大LB
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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