橘ますみ (女優)
橘 ますみ(たちばな ますみ、1945年11月5日 - )は、日本の女優。本名同じ[1]。大阪府大阪市出身。身長160cm。B87?cm、W60cm、H88cm(1968年6月)[2][注 1]。特技・方位[5]。 経歴『日本映画俳優全集・女優編』や『週刊明星』など、文献の多くで大阪市生まれと記載されているが[6][7]、『映画情報』1969年9月号では「終戦直後の東京で生まれた」と記述され[4]、芸能界を引退して間もない自宅マンションで取材を受けた『週刊平凡』1971年10月4日号のインタビュー記事では静岡県生まれとし[1]、『スポーツニッポン』1969年5月19日に掲載された京都府清滝川渓谷での水着取材では「静岡の浜辺で育ち、夏は毎日海で暮らした」と橘は話している[3]。 6人姉妹の6女[6]。1964年、四天王寺学園高校を卒業[1]。同年CMガールのオーディションに受験したことがきっかけで芸能界入り[1][6]。母親は猛反対した[1]。1966年、東映入社[6]。翌1967年、『博奕打ち』の脇役で映画デビュー[6]。1968年4月6日から放送されたテレビドラマ『大奥』(フジテレビ/関西テレビ)は、新人・橘を売り出す意図もあり[8]、第1話から第4話までのヒロイン・お楽の方を演じて20歳から32歳までを演じ分け[5]、お茶の間の人気をさらった[4]。倉田準二監督から内面の演技を要求され、芝居の難しさを知り、「色気がない。恋愛しろといわれ閉口した」と話している[5]。 1968年、石井輝男監督の「異常性愛路線」第2弾『温泉あんま芸者』がキャスティングに難航したため[9]、主役に抜擢される[9]。本作は唯一、バージンを守り通す役のため脱がなかったが[9]、同じ石井監督の1969年の『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』で初めてヌードになった[1][10]。以降、石井作品の常連女優の一人となって脱ぎまくり[1]、スターダムにのし上がる[1]。1969年の東映カレンダーの表紙も飾り[4]、同年、日本映画製作者協会新人賞(現・エランドール賞新人賞)受賞。スポーツニッポン』1969年5月19日には「東映性愛路線をひとり占めにしている」と記載される[3]。『週刊明星』1969年12月28日号に「一連の東映㊙物にはほとんど出演しているいわば㊙女優」と記載される[7]。出演した計43作品のうち、約3分の1でヌードになった[1]。橘自身も「大きなバストが自慢」と話していた[3]。また、男性週刊誌などのグラビアで均整のとれた肢体を惜しげもなくさらして男性を悩殺し、圧倒的な人気を得た[1]。 1970年12月、持病の気管支炎を悪化させ、女優生活にも嫌気がさしてきた時期でもあり、中途半端に続けるよりはいいと東映に辞表を提出したが[1]、お色気路線のエース格を東映も手放せず、休暇をもらい3か月後の1971年3月に『ずべ公番長 ざんげの値打ちもない』で仕事に復帰した。同年6月の東映との契約切れで再度辞表を、今度は大川博社長に提出したが、「気分転換に台湾でも行って遊んでおいで」となだめられ、台湾旅行に行った。ところが、父のいない橘にとって父親代わりの存在だった大川が、同年8月17日に急逝した。ショックが大きく女優廃業を決意し、1971年9月22日に辞表が正式に受理され、25歳で芸能界を引退した[1]。女優引退を決意した理由を「この4年間、身分不相応にチヤホヤされたり、外面だけいい女の子になって、性格が歪んでいく自分が怖くなったの。それに女優同士の変なライバル意識みたいなものの中で生きているのがとても耐えられなくなった」と話した[1]。女優業に終始猛反対した母親は『温泉あんま芸者』撮影中の粟津温泉に「みっともない!ギャラぶんのお金はお母さんが払うからすぐ帰ってらっしゃい」と電話してくるほどで[1]、娘の芸能界引退を大喜びしたという[1]。「普通の女の子の生活がしたい」とその後、東京のデザイン会社で月給4万円のOLになった[1][6]。 映画デビューの前には、トニー谷司会の番組『アベック歌合戦』(読売テレビ)でアシスタントを務めていた。 2012年3月から5月に東京ラピュタ阿佐ヶ谷にて「東映異常性愛路線のミューズ 橘ますみ伝説」というタイトルで橘の特集上映が組まれた[11]。 出演作品映画
テレビドラマ
脚注注釈出典
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