渡瀬恒彦
島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ、兵庫県淡路島育ち[1]。東映マネージメント所属[2]。兄は俳優の渡哲也、長男はTBSディレクターの渡瀬暁彦。身長174cm[1]、血液型AB型[1]。 来歴生誕からデビューまで(1944年〜1969年)幼少期はガキ大将[3]だった。同じ小学校に通った同級生は「恒ちゃんは、ガキ大将で、けんかがものすごく強かった。友だちをいじめた相手に『何やってるんや』と向かっていき、兄貴肌で慕われていた」と懐かしんだ[4]。生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町(現・淡路市)に移り、三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。中学の入学試験で「あの野郎2番の成績で入って来た」と兄・渡哲也が回想していたが中学三年で柔道黒帯[3][5]。高校時代は水泳部に所属。当時から同世代の女子に人気があり運動会には渡瀬目当ての女子学生が押しかけてきて大変だったという[6]。同級生の兵庫県議・野間洋志によると「常に夏目漱石などを読んでいた。難しい「乾坤一擲」などの言い回しや熟語を使い、国語の成績は270人中常に5番以内[7]」。また恩師によれば、当時から頭の回転が早くリーダーシップがあった[6]。また俳優かけだしの頃、三田学園の寮を何度か訪れ淡路の海を「昔はヤスで魚やサザエを取った」と懐かしんでいたという[8]。渡瀬曰く高校在学中は新聞記者に憧れていた[9]。 三田学園高等学校卒業後、中央大学・慶應義塾大学法学部に現役合格するも早稲田大学は不合格だった。兄・渡哲也からは「慶應に行け」と言われたが、庭で不合格通知を見た母親が涙を流してるのを見て1浪を選択し尾崎士郎「人生劇場」にも影響された[7]、早稲田大学の第一法学部に入学[9]。当時青山学院大学に通っていた兄・渡哲也との共同生活が始まる[7]。空手部に所属し、二段の腕前だった[10]。またボクシングもやっていた[3] という説もある。 しかし、本人曰く「いい加減な学生」[9] で、当時の大学は学生運動全盛期で講義もなければ卒論もない。新聞記者になりたい夢はいつしか消え[9]、作詞家になりたいと詩をたくさん書いていた時期もあった[7] が、大学在学中はやりたいことも見つからないまま、仲間たちといつも「何かねぇのかな」と語り合っていたという。だからこそ実社会に出たらハードな職種で、なおかつ時代の先端を行く仕事に着きたいと考えた結果、兄・渡哲也の「堅い道を進め」という助言もあって[11]卒業見込み[12] で電通PRセンターに就職した[13]。しかし、研修期間1ヶ月で同社を辞め、先輩が作った青山の広告代理店「ジャパーク」に移る[5]。仕事は営業、渡瀬自身も会社員時代当時もよく働いていたと自負している。ジャパークで働いていた時、兄・渡哲也の知り合いが不動産屋を始めて急成長。宣伝スタッフがいないというので休日になると手伝いに行っていた。東映の傍系会社に電通や博報堂のCM映像を制作する東映CMが銀座にあり[13]、銀座を歩いていた渡瀬を見た同社の役員から[13]、「俳優にならないか?」と声をかけられる[13]。最初は躊躇するものの、ジャパークの社長に相談すると、「絶対マイナスにならないから」と当時東映企画製作本部長だった岡田茂に会うことを薦められる[13][14]。ジャパークの給料もよく[11]、仕事も面白くなって来たところで、映画にまるで興味もなく[11]、兄からは「芸能界は前近代的な職場だしラクじゃない。お前はふつうの堅い道を進んで欲しい」などと映画界入りに反対されていた[11][15][16]。自身も兄を東映に引き抜くための手段に使われているのではないかと懸念し[16]、100%断るつもりで岡田を訪問したところ[5][15][16]、「とにかく俺にまかせろ」などと岡田に口説かれた[11][15][13]。彼の人柄にすっかり魅了され、「こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたい。30まで人生預けてみよう。一発ためしにやってみるか」と即決で俳優転向を決めた[9][11][14][13][15][17][18]。岡田から「男が顔になってくるのは35歳だぞ。それからだからな」と言われた[19]。渡が芸名で活動しているのに対し、本名で活動し始めたのは、高倉健を意識した東映に「大倉純」という芸名を提案されたものの気に入らず、それなら本名の方が良いと申し出たことに由来している。当時入社6年目の東映宣伝部員・福永邦昭は岡田に呼ばれて、渡瀬と引き合わされ「しばらくお前に(渡瀬を)任せるから」と言われた[13]。福永と渡瀬はすぐに意気投合し、週1、2ペースで歌舞伎町の安キャバレー「チャイナタウン」で飲んだ[13]。渡瀬はさほど酒は強くなかったというが、渡瀬兄弟は仲が良く、当時、渡哲也と代々木のマンションに同居していて、歌舞伎町で飲んだ後は、代々木まで歩いて帰っていたという[13]。帰路の途中に渡瀬がいつも「地面を見つめて、歩くだけー。背中をまるめて、歩くだけー」と低音で歌を唄うので、福永は「いい歌だね。誰の曲?」と聞いたら渡瀬は「自分で作った」という[13]。肝心のサビがなかったため、福永が知り合いの作曲家に頼み、補作したものが渡瀬の主演第二作『監獄人別帳』に主題歌として採用され、「ごっかんブルース」のB面に渡瀬の作詞作曲クレジットで「俺は忘れもの」として収録されシングルも発売されている[13]。 デビュー(1969年〜1977年)1970年1月31日(土曜日)、石井輝男監督の映画「殺し屋人別帳」の主役としてデビュー[15]する事になり、マスコミを集めてのデモンストレーションで大学時代の空手を見せて「兄貴には小さい頃から勉強でも喧嘩でも負けた事がない。今やっても負けませんよ。」既に日活のスターになっていた渡哲也へのライバル心を隠そうとはしなかった。外部から迎えた若手タレントで東映で主役デビューは大川橋蔵以来といわれた[5]。岡田から「やれ」の一言で、演技の勉強もなく京都に来て監督の石井と同じ部屋に泊まり、毎朝監督と一緒に起きて撮影所に行き、出番の有無に関わらず終わりまで撮影に付き合う毎日だった[11][17]。しかし、デビュー作の演技を渡瀬曰く「そりゃそうだ、昨日までは素人だったんだから」と開き直っても、根がマイナス思考のため、凄まじいまでの酷さとひどく落ち込み、間違った世界に来たのかと思ったが、悩む暇がないほど次から次へと仕事が舞い込んでいったという[9]。デビュー当時の渡瀬はやんちゃでとにかく熱く突っ走っていたと大勢の映画関係者が証言しているが、渡瀬と旧知の仲だった東映・奈村協もその1人。奈村は1972年、工藤栄一監督「忍法かげろう斬り」で身体を壊した兄・渡哲也の代役を任された時が初対面。東映京都撮影所駐車場で当時の愛車だったフェアレディ240Zを使ってスピンの練習をしていたり、当時東京から京都まで新幹線で3時間15分でかかっていたが自分なら車で新幹線より早く東京に着けると豪語していた[20] という。「現場では10代の新人でも70、80歳代のベテランでもみんな同じライバル」[9] という渡瀬にとって、錚々たる俳優の中で唯一競争できる要素が「アクション」だった[9]。人並外れた身体能力の高さから、当初は東映のアクションスターのホープとして期待された[18]。 そんなやんちゃで熱い渡瀬を東映京都撮影所でも次第に認められ、中島貞夫、工藤栄一、深作欣二、山下耕作といった監督を始めあらゆる人から「恒さん」と呼ばれるようになった。東映京都撮影所では若い人を通常「○○ちゃん」、「○○ぽん」と呼ぶため渡瀬の「恒さん」は別格だった[20]。 中島貞夫は渡瀬が演技に開眼したのは「現代やくざ 血桜三兄弟」(1971年)における荒木一郎との出会いと話している[21]。ある三兄弟の末弟を演じた渡瀬が、もぐらと仇名される気弱な男を演じる荒木一郎と不思議な友情で結ばれるあるシーン。2人には長回しするからと事前に伝えてあったが、どちらが言い出したのか2人だけでリハーサルを行っていた。妙にウマも合ったのか、演技にはうるさい荒木の影響を受けて、それまでのただ生身をぶつけるような演技から変貌を遂げた[22]。 また常に新しいことに挑戦しようとする気構えもあった。中島貞夫が東映での監督生活が10年近くが過ぎ、一部の映画作家には「低予算ながら企業の制約なしに好きな作品が撮影できる」理由で人気があったATG作品として『鉄砲玉の美学』(1973年)に挑戦してみることにした。それでも1000万という予算は苦しかった。撮影の費用は工夫を重ねて切り詰めたが、キャスト費をどう捻出したらよいか。そんな折だった。何処で聞きつけたのか渡瀬が中島に付きまとい始める。「ねぇ、何かやるんだって」「俺やるよ」。渡瀬は撮影所のスタッフルーム、中島の自宅にも押しかけて出演を直談判した[23]。作品の内容(従来の義理と人情ばかりの紋切り型ではない、いわゆる格好悪いヤクザを描こうとしていた[24])製作方式、そしてまともにギャラが払えぬと監督の中島が渡瀬が作品への出演を断念するように説得した。しかし渡瀬は諦めることなく「ギャラなんかどうでもいいから俺にやらせて」と猛烈に売り込み、中島が「じゃあついでにあんたの車をロケ地に持ってきて劇用車に使わせてくれるか」と渡瀬に伝えると渡瀬は「いいよ」と答えた[23]。撮影は宮崎県。宿はタイアップした都城市の旅館の大部屋でスタッフ・キャストの区別なく大部屋でゴロ寝。そこで10日あまり撮影で過ごし、中島はヤンチャで喧嘩早い渡瀬が細やかな気配りをしている様子を目の当たりにした[23][25]。 1976年の「狂った野獣」では、中島が当初「まがりなりにもスターなんだから顔に怪我させられない」と横転するシーンのみスタントを使うことを主張するが、渡瀬は大型バス運転免許を運転教習所が驚くほどの早さで取得し、中島に「どうしても俺がやる、そのために免許を取ったんだ」と訴え、自らバスを運転し引っ繰り返す命がけの撮影に挑んだ[14][26](渡瀬の盟友であるピラニア軍団の面々もバスに同乗したが、本音は「横転するバスになんか乗りたくなかった。でも、世話になっている渡瀬の手前断れなかった[26]」という)。中島は当時の渡瀬を「飛び立つヘリコプターにぶら下がったり、運動神経がとにかく抜群だった[21]」と絶賛する。次第に中島は渡瀬が運転に関して自信過剰になっていると危惧する[26] が、渡瀬のアクションはどんどん過激になっていく。「暴走パニック大激突」(1976年)では200台もの車やバイクが衝突するクライマックスシーンの撮影時に出演者の中でたった1人ノースタントを志願。自らハンドルを握り、対向車に飛び込んだ[3]。 「現代やくざ 血桜三兄弟」(1971年)、高田宏治に「あんなハチャメチャなヒロポン中毒の殺人鬼は彼しかできない」と言わしめた[注釈 1]「実録・私設銀座警察」(1973年)[7]、小林旭と壮絶で悲劇的な兄弟の殺し合いを繰り広げた「唐獅子警察」(1974年)、梶芽衣子と日本版ボニー&クライドを演じた「ジーンズ・ブルース 明日なき無頼派」(1974年)などデビュー以来渡瀬は底辺でもがくアウトローを演じ続けてきた[21]。しかし、1977年「北陸代理戦争」の撮影中渡瀬が運転ミスでオープンジープから投げ出されて、ジープに足を潰され生死の淵をさまよう大怪我を負い降板[26](代役は伊吹吾郎[27])。監督・深作欣二と脚本家・高田宏治は責任を感じ、渡瀬の病室を見舞った。麻酔が効いて眠り目が覚めるとその度に枕元に深作がいた。「こうなっちゃ仕方ないよ」と逆に深作と高田を慰めた[27] という。自分の人生を考えるというよりも、振り返る感覚もなく、ただ「久しぶりに何もない時間があった」[28] この時の大怪我が元でアクション俳優から性格俳優へと転向する[21]。渡瀬自身も後年「結果的には役の幅が広がった」と述懐した[20][18]。 私生活では、三本目の映画「三匹の牝蜂」で共演した大原麗子と1973年に結婚したが[29]、1978年に離婚している[30]。 成熟期(1978年〜1991年)渡瀬は2009年当時のインタビューで、東映以外の映画会社(松竹)初出演作になった1978年「事件」で、ブルーリボン賞・日本アカデミー賞・キネマ旬報等助演男優賞を受賞したことが自分にとっての大きな転機になったと話している。しかし、その当時は実感も感慨もなかった[28]。同年、松竹映画「皇帝のいない八月」でも、狂気を湛えた自衛隊元将校の反乱分子を演じた。1979年には松竹映画「震える舌」「神様のくれた赤ん坊」でキネマ旬報主演男優賞を受賞した[31]。 小林信彦の小説「唐獅子株式会社」の映画化に渡瀬が乗り気で、小林が渡瀬の自宅まで出かけたことがあった。だが、松竹ではやくざ映画は不可能だったため、後年、小林は大変惜しいことをしたと述懐している[32]。 NHKのテレビドラマ「おしん」では、並木浩太役として出演し、おしんの1918年米騒動当時、山形県酒田時代の初恋の相手でありながら、おしんの仕えた「おかよ様」との間で三角関係に置かれ、「おかよ様」が亡くなった後も、ひとりおしんを陰から見守り続け、おしんのスーパー店主としての1956年の再起を支援し、最後にはそれが息子の独善的な経営指針によって破綻していくまで、老女となったおしんを見守る男性役を務めた。 「セーラー服と機関銃」では、現場入り朝9時から撮影開始 深夜0時の撮影終了まで薬師丸ひろ子へひたすら集中力を磨くために三國連太郎と共に繰り返し稽古をつけていた[33](2016年7月22日放映「スタジオパークからこんにちは」ゲスト薬師丸ひろ子より)という。また薬師丸が機関銃を撃つシーンでガラスが飛び散り顔を負傷した際、周囲は「すぐ治るよ」と楽観する中、渡瀬だけが「自分の娘だったらどうする」と薬師丸の怪我を心配した(セーラー服と機関銃 (映画)#薬師丸負傷参照)[注釈 2]。 「南極物語」の大ヒット以降からテレビドラマに軸足を移すようになる。
1990年代、バスクリンのCMに出た事が自身の幅を広げてくれたと2014年当時のインタビューで語っている。コミカルなCMソングと共にお風呂から勢いよく出てくる演出は、それまで銀幕のスターでシリアスな役どころが多かった渡瀬が、子供から大人まで認知度をあげるきっかけになり、お客さんとの距離が近くなった[35] という。 円熟期(1992年〜2014年)存命中、本人の口から語られることはなかったが、ごく一部の人間のみが知る事実として、1994年に脳梗塞を起こした際、左手に軽い障害が残ったといわれ、それが従来の屈強な渡瀬のイメージと併せ人間味が溢れる類まれな存在感が出てきたきっかけと見る向きもある。脳梗塞がきっかけで「最高の仕事をするために」煙草をスッパリやめ、酒は適量なら血流にいいと言われる赤ワインだけにした。連日のように1時間歩き、趣味のカメラで道端の花を撮影していた姿が目撃されている[36]。 この頃も「忠臣蔵外伝 四谷怪談」(1994年)など話題作の映画にも出演していたが、1992年から主演を続けてきた「十津川警部シリーズ」や「タクシードライバーの推理日誌」など、次第にテレビドラマへの出演本数が多くなる。
2002年からは渡瀬がデビューした東映京都撮影所で制作された「おみやさん」がスタート。
2007年度下期の連続テレビ小説「ちりとてちん」では、かつて「上方落語界の四天王」と呼ばれた徒然亭草若を演じた。
2006年からは「警視庁捜査一課9係」シリーズがスタート。松本基弘プロデューサーによれば「『ER緊急救命室』みたいな群像劇をやってみたかった。『土曜ワイド劇場』の枠で『警視庁捜査一課強行七係』(2005年)を作ったが2時間ドラマでは群像劇にはならないことがわかった。その時上層部から『相棒』をやらない時期にやる新たな刑事ドラマを考えろと言われたので、七係の反省から『警視庁捜査一課9係』の企画を出しました。事件を解決するだけではなく、レギュラー刑事たちのプライベートも描く群像劇で、主人公が必ず中心になるわけではない、ある意味チャレンジの企画なんですがいいですか?と尋ねたら、「おもしろそうだからいいよ」と。昼行灯みたいな係長・加納倫太郎の立ち位置をよく理解して、企画に乗ってくださいました[41]」
2012年には『おみやさん』などの主演が認められて、第20回橋田賞受賞。「褒められるとすごく元気が良くなります。僕は人を褒めるのが下手で、家でも仕事場でも人を褒めない。たまに褒めるのは犬だけ。これからは褒めるようにしたい」とコメントを残している[47]。 晩年・闘病・死去(2015年〜2017年)2015年8月末、体調不良を訴え、受けた検査で胆嚢に癌が見つかった(当時も調子が良くなかったと思われるが、8月2日に大原麗子の七回忌法要に参列[48] していたことが確認されている)。余命1年の告知を受け、都内の大学病院で5ヶ月間、手術ではなく抗癌剤の投与と放射線治療を受けた。その後も入退院を繰り返しながら、少しずつ仕事をこなしてきた。その間も高額な抗癌剤を試そうとしたり、がん専門病院で特別な放射線治療を受けようとしたが、転移のため叶わなかった[49]。自身が癌に侵されていることは、「あえて自分から話すことではないと思った」という理由[50] で、2016年5月26日発売の「女性セブン」が報じるまでは公にされなかった。 「9係」プロデューサーの松本基弘には2016年の11シーズン終了後に渡瀬自身から癌であることを伝えられた。しかし松本は治療すれば必ず良くなると信じていた[51] という。どんな体調が優れない時でも「俺はやる、とにかく現場に戻るんだ」という意欲を燃やし[52]、2016年に入ってからは血流を良くする気功術を導入した[49]。 病魔が渡瀬の体を蝕み、2016年6月から8月に撮影された「おみやさんスペシャル2」では、親友の成瀬正孝が陣中見舞いに訪れた6月の時点では、調子が悪いながら一緒に食事へ行くなどの気遣いを見せる余裕があったが[53]、7月には隠し切れないほどの体調悪化で撮影が続行できるか一時検討された。しかし、撮影途中から妻が京都に駆けつけ、献身的に支えたことで撮影を乗り切った[54]。松本基弘によれば「おみやさんスペシャル」の後に「タクシードライバーの推理日誌」新作撮影予定だったが、体調を崩したことを考慮し延期して静養に努めた[51]。 遺作となったテレビ朝日系列のスペシャルドラマ「そして誰もいなくなった」(2017年3月25日・26日放送)への出演を藤本一彦プロデューサーが渡瀬にオファーしたのは11月。藤本によれば、最初は別の役を依頼するつもりだったが、準備稿を読んだ渡瀬が犯人の磐村兵庫役をやりたいと話した[51] という。 渡瀬の直筆で毎年宛名から文面まで律儀に書かれていた年賀状が、2017年には「賀春 おめでとうと、ありがとうを申し上げます」と健筆で書かれていた[55]。2016年までの年賀状とはちょっと違うことに気づき、文面に込められた渡瀬の思いに井上茂は心がざわめいたという[55]。 「そして誰もいなくなった」の撮影は、2016年12月24日から2017年2月12日まで続いた[56]。クランクインで渡瀬は「皆さんご存知だと思いますが、私は癌です。それでもこの役を全うしたい」と挨拶した[51] という。撮影の際には風邪が蔓延しないように全員がマスクを着用、照明のセッティング待ちがないように照明なしのカメラを用意し、出来るだけロケの回数を抑えるために、藤本プロデューサーは監督の和泉聖治へ工夫するよう指示した[51]。最後に磐村が犯行を告白する13分間の独白シーンは、渡瀬の負担にならないよう通常は現場で行うカット割りを和泉は事前に作業した[51]。移動は車椅子、撮影の合間には酸素吸入器の管を鼻から挿入して、命を削って容態が急変する前まで撮影を終わらせた[49]。 3月2日の制作会見では、渡瀬は「スケジュールの都合」で欠席だったが、共演者の津川雅彦[注釈 3] によれば共演者は癌に侵された渡瀬を気遣い労わったという。そんな渡瀬は誰よりも早く現場に入るので、つられて共演者も現場に入るのが早くなったという現場の様子を明かした[57]。 1月25日には警視庁捜査一課9係の取材で、テレビ朝日で(最後のマスコミ個別対応になった)サンケイスポーツの取材に応じた。その時も鼻には酸素吸入器をつけてはいたが口調や足取りはしっかりしていたという。その際、記者へ「『9係』は僕にとって『やらせてください!』と言いたい作品なんです」と力を込め、同作品への並々ならぬ思い入れと役者魂をぶつけた。だが記者からの「ライフワークにしたいか?」という質問にひと呼吸して「生きていれば…」と声を落としたという[50]。2月19日、『警視庁捜査一課9係 season12』の取材会に力強い足取りで現れ、12作目になる本作の見所を話した。その際、「体調は良くない。現状維持という感じ、食欲はないけど一生懸命食べている」と自身の体調を包み隠さず話し、会見に同席した羽田美智子が涙ながらに感謝を伝えると、渡瀬も背中を叩いて羽田へ感謝を伝えた[58]。しかし、渡瀬が生前公式の場に登場したのは、この日が最後になった。 2月中旬に左肺の気胸を発症し入院治療を行うも、3月に入って敗血症を発症。しかし現場に戻る執念は衰えず、一般病棟にいる時から「警視庁捜査一課9係 season12」の台本を持ち込んで台詞を全て覚えていた[59]。死去の前日にはマネージャーと「警視庁捜査一課9係 season12」の打ち合わせをこなし、「今月から撮影だ、頑張ろう」と自らを鼓舞していた[49] という。しかし、3月14日、細菌が血液を通じて全身を巡り容態が急変。病院に駆け付けた妻と長男と長女の家族3人に看取られ、同日23時18分、胆嚢がんによる多臓器不全のため、東京都内の病院で永眠。72歳(享年74)だった[49][60]。 没後
人物人柄
仕事に対する姿勢
兄・渡哲也初めて渡哲也が東映京都撮影所に訪れた1972年、弟の思い出として「幼少時代、みんなが止めるのも聞かずに1度に犬4匹を連れて散歩しに行って案の定傷だらけになって帰ってきたこと」を東映・奈村協に話している。やんちゃで責任感があり根性がある弟を一番理解していた[17]。渡瀬曰く子供の頃はケンカはもちろん、勉強もスポーツも渡瀬の方が上回っており、渡は「恒彦の兄」と言われていた。しかし、兄が俳優になると形容詞が逆転し「渡哲也の弟」と言われるようになる[98]。だが、そんな兄の芸能界デビューを後押ししたのは弟だった。予備校時代、浅丘ルリ子主演『執炎』の相手役募集を新聞で読み、青山学院大学の空手部の仲間と共謀して内緒で写真と書類を送った。何も知らない兄はカンカンだったという。また兄のアパートに来る悪友たちとトリスバーに通った。 やがて渡瀬も渡を追って俳優になり、1971年〜1972年NHKドラマ「あまくちからくち」[99] で双子の兄弟役共演、以降は宝酒造「松竹梅」CMで兄弟共演はあったが、映像作品では2011年のTBS「帰郷」まで40年間、2度の別作品オファーを渡が断っている[100]。渡によれば「兄弟でやるのが照れくさかったんです[101]」とのこと。担当プロデューサーによれば、渡瀬に企画を持ちかけ10年前から水面下で進行していたが渡瀬が渡に「我々に残されている時間は少ない。オファーがあるうちにやろう」と電話をかけた事が決め手となった。当時渡は石原プロモーションの社長を退き、演じたい作品に出られる環境になったことも理由のひとつという。2011年当時渡・渡瀬共に「兄弟共演はこれが最後」と公言していた[100]。2011年12月5日制作会見で、渡は「40年前は私もうまくなかったが、私以上に(渡瀬が)うまくなかったので、心配してた思いがある」と40年前を回顧し茶化しながらも「自分を遥かに超えるいい俳優になった」と渡瀬を称えた[102]。2009年当時のインタビューで、渡瀬は「兄は俳優という範疇を超えている。石原裕次郎さんもそうだけど、努力なんかで追いつけない他の人にはない何かを持っている」と渡を称えており[98]、2011年にはお互いを尊敬する兄弟になっていた。しかし、最後の兄弟共演発言から「またチャンスがあったら共演したい」と翻意するほど渡瀬は前向きだったが渡は「遠慮させて頂きます」とやんわりと断っている[102]。 そんな渡瀬に「十津川警部シリーズ」第1作目から全作品に携わった森下和清プロデューサーから10作目付近から構想し続けた兄弟共演を50作目記念で実現させたい旨を明かされる。「難しいよ、2度とないって言っていたし兄貴は頑固だから」と言いながら渡に電話。渡は「世間的に(共演は2011年が)最後って言っちゃっているからまずいよ」と固辞。それでも渡瀬は諦めず渡の自宅に1ヶ月以上足を運び、渡の首を縦に振らせた。渡は「50作目に力を貸してほしいと恒彦に言われ、引き受けました。20年以上続くのは素晴らしいこと。伊東四朗さんと恒彦と他の出演者の方々、スタッフのたゆまぬ努力があったことと思います」とコメントした[103]。 2作品の共演を経て、2014年渡瀬は渡と距離が密に戻ってきた[104] と話している。また「警視庁捜査一課9係」に「兄貴(渡)を特別ゲストで呼びますか」とも発言していた[45]。渡瀬と親友の間柄だった江藤潤も「若い頃は渡瀬の口から渡の話を聞くことはなかったが、ここ数年渡のことを話すようになった[96]」と証言している。 2015年以降渡は急性心筋梗塞で入院のちリハビリを続け、渡瀬が2015年夏から胆のう癌で闘病生活に入ってからも渡瀬はたまに渡の自宅を訪れお互いの体調を気遣い励ましあっていた[105]。しかし、渡瀬の死で兄弟は永遠の別れを迎える。渡は悲しみをこらえ、生前渡瀬が出演へ執念を燃やした「警視庁捜査一課9係 season12」に出演できない無念を代弁した[65]。 なお渡瀬は渡が率いた石原プロモーションと一緒に阪神・淡路大震災当時の炊き出しにも参加している[8]。渡瀬は兄率いる石原プロモーションと合流し、故郷の淡路島や芦屋市に駆けつけて炊き出しを実施。カレーや焼きそばを振る舞って被災者を元気づけた[106]。96年、神戸復興チャリティイベントにも兄弟で参加[107]。 また、1991年渡が直腸がん手術後渡瀬はマスコミ200人以上を前に記者会見を行い、あらゆる質問に毅然と答えた[95]。渡と親交があるビートたけしが渡瀬の死を悼んで、渡のがん手術当時のことを回想し「渡さんが大腸がんになったときに、渡さんが『人工肛門になるんだったら、おれは手術しないで死ぬ』と言ったら、それを渡瀬さんが『手術しろ。恥ずかしくない。生きるべきだ!』って説得したんだ。それを渡瀬さんが先に死んじゃうなんてね。ヤクザとけんかするほど暴れん坊だったのにな[108]。」 結婚渡瀬は生前2回結婚している。1度目は大原麗子(1973年〜1978年)[29]。1970年6月公開の『三匹の牝蜂』での初共演がきっかけで[29]、渡瀬が「最初の第一印象で気が合った感じ」とすぐにデートを重ね、1971年11月に渡瀬が岡田東映社長宅を訪れ、結婚の決意を報告した[29]。1972年2月14日に東京プリンスホテルで行われた婚約発表では、報道陣からの「お互いどこに惹かれたか」の質問に対して、渡瀬は「全部が好き」と答えたが、大原は「イチかバチかといった冒険的なところに魅力を感じた」と話した[29]。悪ぶっていたデビュー当時の渡瀬に、ある俳優仲間が“大原麗子クラスのスター女優に言うことを聞かせるぐらいじゃないとダメだ”と吹き込んだことがあった[7]。そのため『鉄砲玉の美学』や『狂った野獣』でタッグを組んだ中島貞夫が住んでいる京都の家へ大原麗子を伴って現れ、「結婚するので嵯峨野に家を探している」と相談されて中島は大変驚いた。当時、渡瀬はピラニア軍団の親分的立場とはいえ、トップスターの大原麗子とは明らかに「格差婚」だった[109] という。また大原が姉と慕っていた浅丘ルリ子の元にも2人は挨拶へ出向いている[110]。大原麗子の実弟によれば「お互い一目惚れだが、特に大原麗子が渡瀬を好きになった」という。結婚当時姉の運転手をしていたが、完全に2人の世界に入り込み、車の中で渡瀬は膝の上に大原を乗せて甘えていた[7] という。また子宮外妊娠で手術を受け、大原は渡瀬から輸血されたこともあった[111]。 渡瀬の実父が死去し、渡瀬が母を引き取ったことでいわゆる嫁姑問題が生まれ、渡瀬が売れっ子になり自宅にあまり帰らなくなったことで夫婦に溝が生まれ口喧嘩が増えていった。離婚の1年前、夫婦関係の亀裂は深まり、大原は渡瀬の浮気を疑ったとされている。実際、渡瀬は浮気をしていなかったが大原はセックスを拒否するまで疑心暗鬼は深まった。欲求不満になった渡瀬は家政婦にも言い寄った[7][注釈 4] という。1978年離婚、渡瀬の親友だった江藤潤は傷心の渡瀬を支え「直後はショックが手に取るように分かった。当時、一緒に飲みに行くと、いつもどっぷりと落ち込みながら痛飲していた」といい、めったにやらないカラオケにも付き合った[109]。 離婚後、仕事では円熟期を迎えていた渡瀬だが、大原は少しずつ時代に必要とされなくなり仕事の本数が減っていく[112]。そんな折、(当時)十津川シリーズ・プロデューサー森下和清が「(2004年シリーズ33本目で)大原に出てもらいたい」旨を渡瀬へ伝えた。すると渡瀬は「俺はいいけど、奥さんに聞いてみるわ」と答え、妻は「そんな小さいこと忘れているからいいわよ」と答えてくれたのが後押しになった[113]。また渡瀬は仕事が減少していく大原を気遣ってオファーしたともいわれている[112]。常々、大原は「(渡瀬とは)嫌いになって別れたわけではない」と話していたのでオファーを喜んで受けた[112] という。撮影中、渡瀬は自分の出番がなくてもマネージャーのように大原へずっとついて[113]、撮影も順調に終わった。だが、オンエアを見て大原の表情が変わった。「(2つ年上の渡瀬と並んで)私のほうが老けて見える。悔しい!」大原は十津川が映像作品の最後の仕事になった[112]。 大原は、2000年過ぎから心身のバランスを崩し、色々な人へ時かまわず一方的な迷惑電話をするようになり、浅丘ルリ子など仲の良い人は大原と絶交してしまう[110] が、渡瀬は大原から電話がかかってきても拒絶せず話を聞いたという。 2度目は結婚当時元OLの一般人女性(1979年〜2017年)。渡瀬が公に語ることは少なかったが、渡瀬逝去後の2017年6月7日『徹子の部屋』に出演した井ノ原快彦によれば子供2人が独立して巣立った後、妻と2人きりになり「二度目の恋だな」と井ノ原に妻への愛情の一端を語っていたことを紹介していた。1994年、脳梗塞を患ったことをきっかけに健康維持のため始めた散歩に付き添っていたことなどを生前の渡瀬が明かしている。特に晩年、がんになってからは治療法について周囲と相談したり、がんで体力が落ちる渡瀬を気遣い、食欲が減退する渡瀬のために食べやすく栄養が取れる食事を作るなどして、渡瀬を支え続けた。そんな献身ぶりに渡瀬は「なぜコイツと一緒になったかわかった」と愛情と感謝を口にしていた[105] とされる。 交友
没後、共演者・スタッフの追悼
受賞
出演映画
テレビドラマ
その他
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歌シングル
オリジナル・アルバム
「渡瀬恒彦」を演じた俳優
脚注注釈
出典
外部リンクInformation related to 渡瀬恒彦 |