西サハラの歴史 (にしサハラのれきし)は、紀元前5世紀 のカルタゴ の冒険者であった航海者ハンノ の時代まで遡ることができる。それ以前にも僅かに歴史的記録は見られるものの、西サハラ に於ける近代的な意味での歴史のルーツはベルベル人 部族の支配下にあったいくつかの遊牧民 にあり、イスラム教 とアラビア語 の導入は8世紀 からである。
西サハラ地域は現代の言葉でいう意味の「国家 」を形成した経験がない。古代にはフェニキア人 が植民していたが、彼らは姿を消し痕跡もほとんど残っていない。イスラム教は8世紀にこの地域に達したが、砂漠化 に悩まされていたこの地域では、ほとんど発展せずにいた。
1884年 にスペイン はボハドール岬 (スペイン語版 ) からブラン岬 (スペイン語版 ) (現ヌアウディブ岬)までの海岸を保護領と主張し、この領域は後に拡張された。1958年 にスペインはそれまで別個であった地区を統合してスペイン領サハラ とした。
1975年 の国際司法裁判所 による西サハラの地位についての勧告では、一部の部族がモロッコ との歴史的な繋がりをもっているが、それは西サハラとモロッコの間に"領土主権 の繋がり"をもたらすには足らないと看做していた。
この1975年の11月、非武装のモロッコ人30万人がタルファヤ に集結し、国王ハサン2世 の合図を待って西サハラへ進入し、緑の行進 が始まった。最終的に、スペインは1975年11月14日 に西サハラを手放し、スペイン人 の遺体を墓から掘り出しさえもした。モロッコは1976年に実際に西サハラの北部2/3を併合し、 モロッコと同様に西サハラの領有権を主張していたモーリタニア の撤退後、1979年 に残りの部分を併合した。
1976年 2月27日 、ポリサリオ戦線 はサハラ・アラブ民主共和国 建国を正式に宣言してアルジェリア に亡命政権を樹立し、モロッコに対してゲリラ 戦を開始した。この西サハラ紛争 は1991年 の停戦まで続いた。この停戦の合意の一部として、独立かモロッコへの併合かを選択する住民投票が固有の住民の間で行われることになったものの、この地域は遊牧民 が多く投票権を持つ「西サハラ住民」の定義をめぐる問題から有権者の認定が困難を極めるためという理由で未だ実施されていない。
序説
11世紀 から19世紀 にかけ、西サハラはブラックアフリカ と北アフリカ の間にあった。11世紀にサンハジャ部族連合 (英語版 ) はラムツナ部族 (英語版 ) と同盟し、ムワッヒド朝 を立てた。ムワッヒド朝の征服範囲は大モロッコ と呼ばれる、マグリブ の一部を含む現在のモロッコの大部分とトレムセン (現在のアルジェリア 西部)、北はイベリア半島 (現在のスペイン 、ポルトガル )、南はマリ帝国 、ガーナ王国 (現在のモーリタニア やセネガル )まで達していた。
16世紀にモロッコに成立したサアド朝 は1591年 にニジェール川 を基盤としてたソンガイ帝国 を征服した後、西サハラ はマリのトンブクトゥ とモロッコのマラケシュ の間のキャラバン 隊の戦略的交通路となり、サハラ交易 が活発となった。17世紀 と18世紀 には奴隷貿易 が一般的となった。
西サハラ地域は19世紀末の列強 によるアフリカ分割 についてのベルリン会議 にてスペイン に与えられたことにより、1884年 にスペインの植民地となった。その結果、西サハラはスペイン領サハラ と呼ばれることとなった。
1975年11月6日、モロッコは緑の行進 を組織した。これは、非武装民間人35万人がモロッコ全土から後に南部諸州 と呼ばれるようになった地域[ 注釈 1] へ移動するという大規模デモである。その数日前(10月31日)に、モロッコ王立軍 は北西より侵略を行っていた。この結果、スペインはモロッコとモーリタニアと共にマドリード協定 に調印しこの地域を放棄した。
西サハラにはモロッコ とポリサリオ戦線 との間の係争地域が1975年より残っている。モロッコは歴史的な繋がりに基づく統治権を要求し、一方ポリサリオ戦線は脱植民地化 と国家の独立 を求めている。この係争はマンハセット交渉 によって解決を保留している。
西サハラには主にアラビア語ハッサニヤ方言 を話すサハラウィー人 (英語版 ) に加えて、シルハ語 (ベルベル語 )を話す北部の少数民族がいる。
ベルベル人部族の支配
フェニキア カルタゴ 人植民地が 紀元前5世紀に航海者ハンノ によって設立、もしくは強化されたが、実際の痕跡は消えてしまった。"乾燥移行期" (紀元前300年頃 - 300年頃)[ 注釈 2] の間のサハラ の砂漠化[ 1] により、3世紀からのラクダ の導入前は、外の世界との接触はとても困難であった[ 2] 。ラクダはもっぱら荷運に使われ、人々はラクダの横を歩いていた。また、ラクダの肉と乳、皮は重要であった。1000年から1500年の間には、馬が戦争に使用された[ 3] 。
8世紀にイスラム教 が伝来する以前は、平野に住む遊牧民(主にサンハジャ部族連合 (英語版 ) ) 、渓谷やオアシス、アウダガスト 、ティシット 、ウアラタ 、テガーザ [ 注釈 3] 、トンブクトゥ、Awlil, Azuki,Tamdultの住民と共にベルベル人 がサハラ西部に住んでいた。アラブ からの入植者によって持ち込まれたイスラム教 の信仰はまたたくまに広がった。
ベルベル人は徐々にサハラの交易ルートを開発していった。キャラバン は塩 、金 、奴隷 を北アフリカ と西アフリカの間で運んでおり、交易ルートの支配については、様々な部族間の権力闘争の中で大きな割合を占めるようになった。 西サハラのベルベル人たちは、宗教的指導者によって互いに結束し、時々自らの王朝を立てた。これは、モロッコのムラービト朝 とアル=アンダルス 、また17世紀のナシル・アルディン のジハード 、18世紀のKunta のカディール 運動などがこれにあたる[ 4] 。
ムラービト朝とザーウィヤ
サハラ西部のムラービト朝 (1061年 - 1147年)の動きが社会の完全な変化の始まりであった。この過程の重要な役割はザーウィヤ(修道場)によって行われた。イスラム 学者による指導の下のイスラム教育の中心として、'saih'が新しい人々の中心となった。彼らが古い指導集団から離れ、『コーラン 』に従ってザーウィヤを形成したとき、多くの部族の中で 我々は分裂を見る。これらの新しく形成された集団は伝統的な軍事集団から自らを分離した。それまで母系 の系譜は重要であったので、彼らはイスラムの預言者ムハンマド からの自分の家系を示そうとし、父系 の祖先の重要性を強調した。彼らは戦いの理想より精神的な理想を高く置き、宗教的な影響を軍事的な圧力より選んでいる。 彼らは施しを与え、必要とする人に牛を貸すのに賛成しており、略奪や搾取には強行に反対しており、牛の略奪と無規則な課税を違法にすると明言していた。また、非宗教的な戦争に反対していたが、軍事的な攻撃から守るには十分なほど強かった。これらのザーウィヤ部族は宗教と法律教育の専門家、また教師の集団と なった[ 5] 。
ムワッヒド朝によるアラブ化(13世紀 - 14世紀)
ムラービト朝統治下にて、職業戦士達はジハードをムジャーヒディーン として戦った。ザーウィヤ で団結した人々と同じように、ムジャーヒディーンは職業に基づく集団を形成し始める。これはMaqil アラブ部族の到来によって加速した。 13世紀と14世紀の間に、アラブ部族はフェザーン (リビア )、イフリーキヤ (チュニジア )、トレムセン (アルジェリア )、Jbel Saghro (モロッコ )、サギア・エル・ハムラ (現西サハラ )などへの入植を行うため、サハラの北縁にそって西へと移住をしていた。 Maqil (英語版 ) アラブ人がサハラ西部に到達したとき、ムジャーヒディーンはアラビア化する傾向にあった。ザヴィア部族はベルベル人の特徴を保持し続ける一方、戦士達はできる限りアラブ化しようと試み、部族の祖先の系譜を構築しようと、Maqil (英語版 ) のメンバーに接触し、部族をアラブ化した。このような例としては、 NyarzigはOuled Rizgとなった、ということが挙げられるだろう。しかし、自身をアラブと呼ぶ権利は、いくつかの部族に制限されており、可能な部族、Banu Hassan部族 (英語版 ) もしくは簡単にHassan、は次の世紀にわたっても戦士階級として機能している[ 6] 。
アラブ化したベルベル人 はサハラのオアシス居住地を支配し、サハラの奴隷貿易 において重要な役目を担っていた。彼らは既に土地を通過するものに重い税を課す一方、護衛とラクダ、物資を供給している。サハラ交易 が増加したとき、奴隷倉庫とキャラバンの中継となる安全な停留場とともに、出発/到着施設を作った これらの施設では、サハラ以南の地域からエジプト 、チュニジア、アルジェリア、モロッコへの通行を監督していた。また、トンブクトゥ は4つのルートの結節点となっており、またウアダン 、イジリ(Idjil) (Atar の近く)、Azougui 、Araouane 、タウデニ 、後にティンドゥフ などは重要な隊商の停泊地となっていた[ 7] 。同じ時に、西サハラ に留められていた奴隷の数が急激に増加している[ 8] 。
Maqil部族は時々、ベルベル人たちと結婚を行った。この地域のArabo-Berber people[訳語疑問点 ] はサハラウィー人 (英語版 ) として知られている。現在において、Banu Hassan部族 (英語版 ) について述べるときに使われる他称は稀にMoors となる。アラビア語の方言であるハッサニヤ語 は西サハラとモーリタニアにおいて、支配的な母語となった。ベルベル人の語彙と文化的特徴はサハラウィー共通のものとなったにもかかわらず、今日も多くのサハラウィーはアラブ の系譜を主張している。
サアド朝(16世紀 - 17世紀)
1147年 にムラービト朝 が崩壊した後、新しい王朝(ムワッヒド朝 、マリーン朝 、ワッタース朝 )がサハラ西部において保守的な政権を保持し続けた[要出典 ] 。 しかしそれはスルターン の権威に大きく依存していた。サハラ西部でモロッコの主権が完全となったのはサアド朝 が権力を握ったときのみであった[要出典 ] 。サアド朝はポルトガル の入植者たちをボハドール岬 (スペイン語版 ) とブラン岬 (スペイン語版 ) から追い出し、1591年 にはサハラ越えの遠征を行ってトンディビの戦い (英語版 ) でソンガイ帝国 を滅ぼすと、モロッコ の国境はセネガル川 南西とニジェール川 南東まで拡大された。サアド朝の後次の、1659年 に権力を掌握したアラウィー朝 が新たにモロッコに誕生し、19世紀にゆっくりと中央政府の崩壊があったが、現在の西サハラ問題 においてもモロッコによる統治に影響を与え続けている[要出典 ] 。
植民地時代(1884年 - 1975年)
第一次世界大戦 直前のアフリカ分割 に於ける各国の主張(1914年)。スペイン領サハラ はオレンジ色に塗られている。
19世紀後半にヨーロッパ 列強諸国はアフリカに足がかりを作ろうとした。フランス はチュニジア を占拠し、イギリス はオスマン帝国領エジプト 、イタリアはエリトリア の一部の所有権を、一方ドイツ はトーゴ 、カメルーン 、南アフリカ を保護下に置くと宣言した。ドイツの侵略に際して、14の国が1884年から1885年にアフリカ分割 に関してベルリン会議 を行った。この時にはまだ、アフリカの80%が在来のアフリカ人 支配下であった。会議の結果、幾何学的で専横的な国境線がひかれた。西サハラ は、ヨーロッパの支配を退けるためのハッサン1世 (英語版 ) の試みにもかかわらず、スペイン の支配下となった。南東のTuat はフランス領アルジェリア (フランス領サハラ)へ編入された。
1904年 にMa al-'Aynayn が植民地支配に反対するジハード を唱えたが、モロッコのスルターン、Abdelaziz にこれを抑える力は既になく、同年、英仏協商 によってモロッコに関する権益をフランスが獲得した。翌1905年 に第一次モロッコ事件 が勃発し、1906年 にアルヘシラス会議 が開催され、モロッコは事実上フランスの勢力圏となった。Ma al-'Aynaynはこの結果を知るとAbdelazizに裏切られたと考えた。1907年 に反フランスの首領であり、スルターン・Abdelazizの弟でもあるAbdelhafid を支持した。その結果、モロッコからの武器の流れが減少した。アンリ・グロー (英語版 ) 率いるフランス軍はフランス領スーダン へ進軍し、1908年 から1909年 にMa al-'AynaynはTiznit (モロッコ)へ退却してAbdelhafidと共に戦いスルターン・Abdelazizの廃位を目標とし、それに成功した。この頃、Ma al-'AynaynはTiznitで自身をマフディー [要曖昧さ回避 ] であると宣言した。
1910年 にモロッコの次代スルターンに即位したAbdelhafidがヨーロッパの圧力で弱体化すると、モロッコは無政府状態 に陥った。Ma al-'Aynaynはモロッコが欧州の手に落ちるのを見て取ると、ジハード をTiznitの北に広げてAbdelhafidも廃位することを決断した。6月23日 、Ma al-'Aynaynはフランス軍のMoinier将軍に破れ、同年10月23日 にTiznitで死亡した。
1911年にベルベル人 が反乱を起こし、フランスがこれを鎮圧したが、ドイツ が自国民保護を理由にアガディール にパンター号を派遣し、第二次モロッコ事件 が勃発した。フランスはイギリス の協力を得て、ドイツは撤退した。
1912年 3月30日 、モロッコ のスルターン・Abdelhafidは圧力に屈し、フェス条約 により、自らスペイン とフランス の保護領となった[ 9] 。
サハラウィー人部族
上述のように、近代の民族 はマリ やニジェール に移住した諸部族を含む、サハラ砂漠 の西端(現在のモーリタニア 、モロッコ 、アルジェリア 、西サハラ )に住むアラブ化したベルベル人である。サハラのほとんどの人々のように、これらの部族は複雑な伝統を反映し、ベルベル人 、アラブ人 、その他の影響と組み合わされ、ネグロイド の民族的、文化的特徴を有している。
植民地時代以前において、サハラ砂漠 の部族の領域は、モロッコ国王 、アルジェリア のデイ のような北アフリカにおける確立されたイスラム教 の様子から、概してbled es-Siba もしくは"相違の大陸"と考えられていた。植民地時代以前のマリ帝国 とソンガイ帝国 のイスラムの政権は、領地において同様の関係を持っていたようだ。これらは自制心に欠ける略奪者集団の本拠であると同時に、サハラ交易 の主要なルートであった。ハッサニヤの諸部族は政治的支持を得るため、もしくは神聖な儀式として近隣の支配者に忠誠を述べたが、中央政府は領地に対して僅かな影響力しか持たなかった。
スペイン植民地時代のサハラウィー人 (英語版 ) の文化民俗史上最良の言及すべき成果は、スペインの人類学 者フリオ・カロ・バロハ の業績にある。彼は1952年から1953年にかけて、スペイン領サハラである程度の期間を現地部族と共に過ごしていた[ 10] 。
スペイン領サハラ
1956年 にモロッコがフランスから主権 を獲得し、独立を達成すると、新たに独立したモロッコ王国はスペイン領サハラ の領有権に関する主張を再開した。1957年 のイフニ戦争 でモロッコ解放軍 はシディ・イフニー (英語版 ) を占領した。スペインはカナリヤ諸島 から落下部隊 を投入してシディ・イフニーを奪還。この時、多くの部族がモロッコに亡命することになった。同年、スペインはサギア・エル・ハムラ とリオ・デ・オロ を、スペイン領サハラ州 として統合した。それまでスペイン領であったタルファヤ とタンタン に関してはモロッコへ割譲することになった。
ゼムラ蜂起
1970年 6月17日 、アイウン のゼムラ地区でハラカト・タハリール が反植民地デモを行なった。これをスペインが弾圧した事件はゼムラ蜂起 と呼ばれている。この事件を契機に、反植民地運動は武力闘争の性格を帯び、1973年 にはポリサリオ戦線 が結成された。
ポリサリオ戦線の反乱
1973年からスペインの入植者達は、ポリサリオ戦線 の武装したゲリラ への地方住民の統制をしだいに失っていった。続いてスペイン人は、植民地支配を支えるためにスペインに忠実なサハラウィー人 (英語版 ) 政治団体を作ることを試み、極端な民族主義者を引き抜こうとしたが失敗した。スペインの指導者フランシスコ・フランコ 総統の健康状態が悪化すると、マドリード 政府は混乱に陥り、サハラ紛争の解決策を求めた。スペインの隣国ポルトガル のエスタド・ノヴォ 権威主義体制が、国際的に不評だったポルトガルの植民地戦争 の末に1974年 のカーネーション革命 によって崩壊したことを受け、撤退の決定を急いだものと思われる。
西サハラ戦争(1975年 - 1991年)
1975年後半、スペインは権力委譲の期日について協議するために、ポリサリオ戦線の指導者エル・ワリ と会談した。しかし同時にモロッコ とモーリタニア はフランコ政権に圧力をかけ始めていた。両国共にスペイン領サハラ は自らの領土の歴史的な一部を形成していると主張していたのである。モロッコが国際司法裁判所 に対して要求の適法性への意見を求めると国際連合 は介入を初め、住民の希望を調査するため訪問ミッション を行った。このミッションは10月15日に報告を返し、独立への賛成世論に圧倒されたと発表した。 Simeon Aké (英語版 ) に率いられたこのミッションでは、ポリサリオ戦線がこの地域における主要なサハラウィー人 (英語版 ) 政府だと思えるとしている。ポリサリオ戦線は主要な諸部族と、かつてスペインを支持していたDjema'a (英語版 ) の長老達からの支持を10月12日 のアインベンティリ (英語版 ) 会談で確実にしたことで、より多くの外交的な成果を達成した。
10月16日、ICJは評決 を届けた。これはモロッコ とモーリタニア の政府を狼狽させ、法廷は明確な多数で両国のスペイン領サハラに対する歴史的な繋がりは領有権を与える物ではない、としていた。その上、法廷は無主地の概念を地域に適用しないと発表した。土地の真正の所有者であるサハラウィー人 (英語版 ) は民族自決 権を有していると発表した。言い換えれば、適法な地位を手に入れるために、状況の解決へのどんな手段 (西サハラの独立、或いはモロッコ、モーリタニアへの統合)もサハラウィー住民の明示的な承認を受ける必要があるということである。モロッコもモーリタニアもこれを受け入れず、1975年10月31日 、モロッコはポリサリオ戦線の陣地を攻撃するため西サハラへ軍 を送った。西サハラの旧宗主国であるスペインとモロッコの間の公式な国交 は継続されていたものの、モロッコは二国間協議を要求していた。
1975年11月6日、モロッコは西サハラへと緑の行進 を始めた。およそ35万人の非武装のモロッコ人がモロッコ南部のタルファヤ に集結し、西サハラに進入するハサン2世 の合図を待った。結果として、スペインはモロッコの要求に従い、二国間協議の場についた。これによって、燐 とスペインの採掘譲歩の見返りに、地域をモロッコとモーリタニアの間で分割するというマドリード協定 が結ばれた。スペインとモロッコはサハラウィー人 (英語版 ) 住民と協議をしておらず、ポリサリオ戦線は強行にこの条約に反対した。
アフリカにおける東西冷戦 の支持陣営(1980年)。モロッコ は西側諸国 (青色)に、ポリサリオ戦線 は東側諸国 (赤色)に支持されていた。
1990年代以前のこの地域における開発機会は東西冷戦 の影響を強く受けている。アルジェリア 、リビア 、マリ は東側諸国 についていた。モロッコ はこの地域で唯一西側諸国 についた国である。
アルジェリアは、1960年代後半から70年代前半に形成されたsplit youngs の分離である、サハラ解放運動に援助をおくった[要出典 ] 。 サハラウィー人 (英語版 ) の大多数はその愛国的な行動を支持し、後にポリサリオと呼ばれる運動に加わった[要出典 ] 。また、ふらつきのサインや弱まった方針から判断し、徐々に自治と中央政府との意見の相違を強めた。
1975年11月14日、スペインとモロッコ、モーリタニアはマドリード協定(1975年) (英語版 ) に調印し、スペイン軍の撤退の予定が組まれ、西サハラにおけるスペインの支配は終了し た。これらの協定はすべての国際基準に準拠して、3ヶ国間で結ばれた。これらの協定の中で、モロッコは西サハラの北側2/3を併合し、モーリタニアには南側1/3が与えられることとなった。ポリサリオ戦線は自らの政府、サハラ・アラブ民主共和国 を樹立し、軍事部門のサハラ人民解放軍 (SPLA). と共にゲリラ 活動を開始した。
1976年2月26日、アイウン での式典でモロッコに行政 権が移譲され、この地域に於けるスペイン植民地支配は終わった。翌日、ポリサリオ戦線はビエ・ラフルー においてサハラ・アラブ民主共和国 (SADR)を亡命政府 として公表した。続いてモーリタニアはリオ・デ・オロ をTiris al-Gharbiyya として改名したが、支配を維持できないことを示していた。ポリサリオ戦線は弱体なモーリタニア軍 を主な標的とし、モーリタニアの首都ヌアクショット (SADRの最初の統括者であるエル・ワリ (英語版 ) が銃撃により死亡した場所)を攻撃し、モーリタニアは国内の不安に屈した。モーリタニアの支配的なムーア人 住民の中に多数存在したサハラウィー・ナショナリストがモーリタニア政府の立場をより不安定にし、数千人のモーリタニアのサハラウィー人 (英語版 ) がポリサリオ戦線に寝返った。1978年にモーリタニア軍はクーデター でモーリタニア政府の統制を握り、モーリタニアが無条件で西サハラから撤退することを前提に、ポリサリオ戦線は停戦を宣言した(アルジェ協定 (1979年) 、英語 :Algiers Agreement )。この協定により、1979年 にモーリタニアの新しい支配者は西サハラへの領土主張を取り下げ、SADRを支持することに同意した。しかし、モーリタニアの撤退後、モロッコは地域の残りを支配下に置き、戦争は続くこととなった。
1980年代を通じてモロッコによる「砂の壁 」の建設を通して戦いは硬直した。散発的な戦闘が続けられ、全当事者にとって問題は徐々に容認できない物となった。
停戦
現在の西サハラの地図。西部のモロッコ実効支配地と、東部のポリサリオ戦線支配地が「砂の壁 」(地図上赤線部)によって分断されている。
1991年 にモロッコとポリサリオ戦線は国際連合 の解決計画 が提示した停戦に合意した。更にこの計画の詳細は1997年 のヒューストン合意 で具体化され、西サハラの地位はサハラウィー人 (英語版 ) 住民による独立、もしくはモロッコとの統合を決定する住民投票 へのモロッコの合意次第となった。計画は彼らの民族自決運動を決定する投票を意図し、これによって西サハラの脱植民地化 の過程を完了しようとしている。国連は停戦と投票への協定を監視するためPKO とMINURSO を派遣した。初めは1992年に計画されていたが、有権者数について揉めているため、住民投票は未だ行われていない。二度目の国連の解決への試みは、ジェームズ・ベイカー による2003年 のベイカー計画II (英語版 ) であったが、ポリサリオ戦線には受け入れられたものの、モロッコは即座に反対した。モロッコはこのような国連調停は不要だと宣言し、投票を実施するという合意を破ったのである。
モロッコの解決計画 と2003年のベイカー計画 (英語版 ) からの脱退は、政治的協議なしにPKOを残した。これは更なる戦争再開の可能性を増大させた。一方では、1990年代の間にモロッコでの政治生活の漸進的な自由化が、遅まきながら西サハラに2000年頃に達した。この政治的矛盾はモロッコ支配に対するデモ を始めた。その後のサハラウィー人に対する取り締まりや逮捕はモロッコ支配へのメディアの注目を集め、サハラウィー人 (英語版 ) ナショナリストは好機を獲得した。2005年 5月のデモの波からポリサリオ戦線支持者から独立インティファーダ (英語版 ) と呼ばれる蜂起が発生した。これらのデモは翌年まで続いた。 また、紛争への新たな関心を生み出した。ポリサリオ戦線は国際的な介入を要求したが、"弾圧のエスカレート"が続けば無為には過ごさないと発表した。
西サハラ紛争におけるアルジェリアの役割
アルジェリアは、民族自決 の単純な擁護者だと主張している[ 11] 。実際、西サハラ紛争 に於けるアルジェリアによる投資努力は絶大なものがあった。国連はモロッコとポリサリオ戦線を紛争における唯一の当事者と考えている。
サハラウィー人の難民キャンプはアルジェリアにあり、アルジェリアはポリサリオ戦線に30年間資金を供給している[ 12] 。
緑の行進 へ反応して、アルジェリアは10,000人のモロッコ人市民の財産を収用し、国外へ追放することを決定した。
国連は紛争の主要な関係者はモロッコとポリサリオ戦線と公式には考えているものの、以前の国連事務総長コフィー・アナン はアルジェリアを利害関係者とみてアルジェリアを勧誘した。"私コフィー・アナンの特使の援助の下、議論と交渉の関係者として携わること"[ 13] 。公共放送サービス のインタビューの中で、2004年8月、国連事務総長の西サハラに対する以前の個人特使であったジェイムズ・ベイカー は、モロッコとアルジェリアを紛争の"2つの主要な参加者" と確認している[ 14] 。 いくつかの第三者機関はモロッコとアルジェリアを共に、紛争の解決策を探すために直接交渉するように言っている[ 15] 。
アルジェリアとモロッコは互いに反政府勢力を支援しているとして長年緊張関係にあるが、2021年になりアルジェリアはカビリー地方の独立運動やアルジェリア国内の山火事にモロッコが関与していると主張し緊張関係が高まった[ 16] 。2021年8月24日、アルジェリアはモロッコとの国交断絶を宣言した[ 16] 。
脚注
注釈
^ モロッコでの西サハラの呼称。
^ アフリカは長いスパンで乾燥期と湿潤期を繰り返している。
^ テガーザは岩塩の鉱山の所在で知られ、モロッコとニジェール川流域の王国との係争のもととなった。
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関連項目
外部リンク
その他