1961年イタリアグランプリ (1961 Italian Grand Prix) は、1961年のF1世界選手権第7戦として、1961年9月10日にモンツァ・サーキットで開催された。
本レースはF1の歴史の中で最も恐ろしい事故の一つであった。2周目の終わりに差し掛かったパラボリカの手前でヴォルフガング・フォン・トリップスのフェラーリ・156がコントロールを失い、フォン・トリップスと観客14人が亡くなった。
レース概要
本レースを迎え、ドライバーズチャンピオン争いはフェラーリのヴォルフガング・フォン・トリップス(32点)とフィル・ヒル(29点)の2人に絞られた[1]。
前年に引き続き、ロードコースとバンクコースの併用で10kmのレイアウトを使用した。地元レースとなるフェラーリはレギュラーのフォン・トリップス、フィル・ヒル、リッチー・ギンサーに加え、メキシコ出身の新人リカルド・ロドリゲスを起用した[1]。決勝出走の時点で19歳208日のロドリゲスは、1980年カナダGPでマイク・サックウェルが19歳182日に更新するまで19年間F1最年少出走記録を保持した[2]。
本レースには37台がエントリーし33台が出場したため、決勝に進出する32台のグリッドを予選タイムの順に並べることになった。これに加え、予選2位のタイムの115%以内を記録できないドライバーは決勝に進出できないルールも設けられた。この方式は、1996年-2002年及び2011年以降に導入されている107%ルールに近い。予選は32台が2位のロドリゲスと115%以内のタイムで予選を通過し、唯一115%を超えたアンドレ・ピレットが予選落ちとなった。フォン・トリップスは生涯初(そして唯一)のポールポジションを獲得した。前戦ドイツGPまで5戦連続ポールポジションだったフィル・ヒルは3位となった[3]。BRMのグラハム・ヒルは自製V型8気筒エンジンを搭載したP57で5位となったが、決勝は古いクライマックスFPF(直列4気筒)搭載のP48/57で臨む[4]。
スタートでフォン・トリップスがわずかに出遅れ、ギンサーとフィル・ヒルが先行する。1周目を終えた段階で、フィル・ヒル、ギンサー、フォン・トリップス、スターリング・モス、ロドリゲス、ジム・クラーク、ジャック・ブラバムの7台が0.9秒差にひしめくが、モスはすぐに先頭集団から脱落し、ブラバムも先頭集団についていくのが精一杯だった。2周目の裏ストレート後半、スリップストリーム合戦を繰り広げるフェラーリ4台の中に1台混じったロータスのクラークが大胆にもフォン・トリップスの真後ろから抜け出して追い抜きにかかるも両者は接触する。フォン・トリップスは230km/hでコントロールを失い、コース左側の狭いグリーンを突っ切って防護柵に激しくクラッシュ、マシンは空中で複雑な捻りを加えられ、再びコース上に跳ね返された。そのすぐ脇でクラークのロータスがグリーン上を狂ったようにスピンしていった。あたり一面の埃が収まると、コース中央に裏返ったフェラーリの残骸と微動だにしないフォン・トリップスの姿があった。当時はシートベルトなどなく、フォン・トリップスはマシンが宙を舞った際に振り落とされ、コース上を滑走しながら息絶えた。クラークは無事だったが、柵越しに観戦していた14名の観客もフォン・トリップス同様に命を落とした。レースはそのまま続行され、ロドリゲスとギンサーはエンジンのトラブルでリタイアし、フェラーリで唯一生き残ったフィル・ヒルが優勝した。この優勝でフィル・ヒルがアメリカ人初のドライバーズチャンピオンとなったが、チームメイトのフォン・トリップスが亡くなったことによりもたらされた苦く悲しい栄冠でもあった[5]。
エントリーリスト
- 追記
- タイヤは全車ダンロップ
- ^1 - BRMはG.ヒルのみ予選で自製V8エンジンを搭載したP57を走らせた(決勝は2台ともP48/57-クライマックス)
- ^2 - エントリーしたが出場せず
- ^3 - 予備登録、第3ドライバー
- ^4 - ナティリは練習走行でピロッキのマシンをドライブしたのみ
結果
予選
- 追記
決勝
- ラップリーダー
- 1–3=フィル・ヒル、4=リッチー・ギンサー、5=P.ヒル、6=ギンサー、7=P.ヒル、8-9=ギンサー、10=P.ヒル、11-13=ギンサー、14-43=P.ヒル
第7戦終了時点のランキング
- ドライバーズ・チャンピオンシップ
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- コンストラクターズ・チャンピオンシップ
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- 注: トップ5のみ表示。ベスト5戦のみがカウントされる。ポイントは有効ポイント、括弧内は総獲得ポイント。
脚注
参照文献
関連項目
外部リンク