中田浩二 (サッカー選手)
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この項目では、サッカー選手について記述しています。俳優の同名の人物については「中田浩二 (俳優)」をご覧ください。 |
中田 浩二(なかた こうじ、1979年7月9日 - )は、滋賀県滋賀郡志賀町(現:大津市)出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー(ボランチ)、ディフェンダー(センターバック、左サイドバック)。元日本代表。
妻は女優・タレントの長澤奈央。
来歴
プロ入り前
滋賀県大津市出生。小学校低学年のころは父親の転勤の関係で転校を繰り返しており、サッカーを始めたのは神奈川県横浜市の横浜市立南戸塚小学校2年の時である。小学校3年の時、鳥取県米子市の米子市立義方小学校に転校し、そこで本格的にサッカーを始めるようになる。小学校5年の時、全日本少年大会に出場する。米子市の米子市立後藤ヶ丘中学校に進学し、中学3年の時に全国中学校大会に出場する。2年の時に中国選抜として選抜中国大会に出場する。中学校までのポジションはFWで、左足の怪物として地元紙にも取り上げられるほどの存在となる。
帝京高校では、2学年上には依田光正、松波和幸(松波正信の弟[2])、留学生の吉成大[3] と江田広(共にペルー人[4][5])、同学年には木島良輔、貞富信宏、藤田芳正がいた。進学後はBチームに入れられるなど決して順調ではなかったものの、ボランチに転向し、頭角を現す。3年生のときにキャプテンとして全国高校サッカー選手権に出場し、決勝では後に鹿島アントラーズでチームメイトとなる本山雅志擁する東福岡高校に敗れたものの、準優勝を収める。この試合は雪深い国立競技場で行われ、試合中に転倒する選手が続出した。また試合球として、白い雪の中でも目立つオレンジ色のボールが採用されるなど、後々まで語り継がれる試合となった。
クラブ
鹿島アントラーズ(1998-2004年)
1998年、Jリーグの鹿島アントラーズに入団(同期は小笠原満男、本山雅志、曽ヶ端準、山口武士、中村祥朗)。同い年の小笠原、本山とともに中盤を担い、チームの多くのタイトル獲得に貢献した。鹿島ではリーグ優勝2回、天皇杯優勝1回、ナビスコカップ優勝1回を経験している。2003年8月の大分トリニータ戦で左ひざ靭帯断裂の大ケガを負い、長期戦線離脱を余儀なくされた。2004年5月、柏レイソル戦で259日ぶりの試合復帰を果たした。
オリンピック・マルセイユ(2005年)
2005年1月、元日本代表監督のフィリップ・トルシエが監督をしているフランス1部リーグのオリンピック・マルセイユの練習に参加する。マルセイユ側は中田の獲得を打診するが、提示された移籍金が低額だったため、鹿島側は中田の移籍を認めなかった。同時期、中田との契約切れが迫っていた鹿島は来季以降の契約更新を申し出るが、中田本人が海外移籍を希望していたため断り続ける。その後、契約切れとなりフリーの立場で同年1月26日にマルセイユに移籍した[注 1]。所属クラブの意向を無視した移籍ゆえに円満移籍とはならなかった。
移籍当初はそこそこ出場機会はあったが、不慣れな左サイドバック、ライバルチームであるPSG戦でのオウンゴール、トルシエ監督の解任により出場機会が激減。守備的MFだけでなくDFもこなせるため出場が期待されたが、イスラエル・プレミアリーグのベイタル・エルサレムFCからの数億単位の移籍話を蹴ったことでフロントとの関係が悪化、その結果、事実上戦力外にされてしまう[7]。
FCバーゼル(2006-2008年)
2006年、出場機会を求めてクラブに移籍を申し出る。古巣の鹿島にも打診したが、「移籍金0円なら獲得する」という回答だった。イスラエル、ウクライナのクラブからオファーが届くもいずれも断り、スイスリーグの名門FCバーゼルの練習に参加し、その後正式契約を結んだ。
2006-07シーズンは、海外のクラブに所属している日本人選手としては珍しく、センターバックとしてレギュラーに定着した。10月のザンクト・ガレン戦で鼻を骨折して途中交代するまでは、19試合連続でフル出場していた。中田の加入以降、バーゼルは2005-06、2006-07シーズンと2シーズン連続で勝ち点1差で優勝を逃すが、2007年5月にはスイスカップに優勝。バーゼルでの初タイトルを獲得した。
2007年6月に代表戦に出るために帰国した際に、人気女優加藤あいと超遠距離恋愛をしていた事が発覚する(2008年7月に加藤と破局と報道される)。
その前後、古巣・鹿島が優勝を目指す為に中田にオファー。中田自身は鹿島が必要としているなら復帰する意思があると伝えたが、鹿島の提示金1億円に対して「中田は必要な選手」とするバーゼルの提示金3億円(ともに推定)では大きな開きがあり、このときは移籍断念となった。
翌2007-08シーズン、バーゼルは悲願のリーグ優勝を果たし、スイスカップも連覇して二冠を獲得。中田も負傷離脱した時期を除き不動のレギュラーとして活躍したが、この頃にはバーゼルの慰留にもかかわらず、中田の鹿島復帰の意思は公然とマスコミに取り上げられるようになった。2008年4月、スイスリーグの終了を待たずして、バーゼルとの契約終了後に鹿島へ移籍することが正式発表された。同年7月より、およそ3年半ぶりにJリーグでプレーすることになった。
鹿島アントラーズ(2008年7月-2014年)
鹿島復帰後はユーティリティー性を買われ、ボランチ、左サイドバック、センターバックと主に3つのポジションでプレー。しかし膝の怪我の影響か全盛期の身体のキレは全く見られず、1対1で簡単に振り切られる場面が多々見られた。10月に膝の再手術に踏み切ったことにより残りシーズンを全休。チームは連覇を達成したものの、中田本人にとっては公式戦わずか12試合の出場に留まり、不本意なシーズンとなってしまった。2009シーズン当初は青木剛にポジションを譲り、控えに甘んじていたが、チームが失速した夏場以降、出場機会が増えた。
2011年シーズン当初は増田誓志の復帰、本田拓也、柴崎岳の加入でボランチの層が厚くなり、大岩剛の引退で層が薄くなったセンターバックで伊野波雅彦と併用にされていたが、しだいにセンターバックのレギュラーに定着、その後、伊野波は移籍をした。
2014年12月3日、2014シーズンをもって現役引退が発表された[8]。チームは最終節まで優勝争いをしていたこともあり、発表直後の12月6日のJ1第34節サガン鳥栖戦もメンバー入りは叶わなかった。
日本代表
トルシエ監督時代
1999年のワールドユースの大会直前に、レギュラーDFと目されていた鹿島のチームメイト金古聖司が負傷し、当時の監督フィリップ・トルシエによってDFにコンバートされた。中田はこの大会で全試合に左センターバックとして出場し、日本は準優勝した。
オリンピック代表でもレギュラーに定着し、2000年にシドニーオリンピックに出場。グループリーグ3戦目のブラジル戦でルーカス・セベリーノによって負傷させられ、その後の試合には出場できなかった。
A代表でのデビュー戦は2000年2月5日のメキシコ戦[1]。2002年FIFA日韓ワールドカップで4試合すべてにフル出場、日本のベスト16に貢献したが、ベスト16のトルコ戦では自陣で相手選手へパスしてしまい、その後の相手のパスは防いだもののCKを献上、そのCKで失点した。
バランス感覚と正確なロングフィード、時にはサイドバックのようなオーバーラップで、トルシエの提唱するフラット3の左のDFというポジションをつかみ、トルシエ監督下、最もコンスタントに試合に出場した選手の一人である。
ジーコ監督時代
ジーコが日本代表監督に就任すると、本来のボランチとして出場するようになった。トルシエ時代より出場機会は減ったが、主要大会のメンバーには毎回選出された。
2004年7月アジアカップ準々決勝ヨルダン戦では、外すと負けというピンチからPK戦4人目としてシュートを成功させる。準決勝、決勝と2試合連続でゴールを挙げて、日本は大会を2連覇した。2006年ワールドカップ・ドイツ大会では、3戦目のブラジル戦に途中出場した。
オシム監督時代
2006年ワールドカップ後に就任したイビチャ・オシム監督のもとでは、欧州のクラブに属している選手がコンディションを崩さないようにという配慮のため、しばらく日本代表への招集は見送られていたものの、代表収集の条件となる“所属クラブでのレギュラー定着゛を果たしている事や、オシム監督が選手に求める“ポリバレント”な能力を持ち合わせている為、日本代表への復帰の可能性も高いと見られていた。2007年6月のキリンカップでオシムジャパン発足後初選出された。
引退後
2015年1月14日、鹿島のクラブスタッフとしてクラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O)に就任。CROはクラブを運営するにあたって連携が必要な協賛企業・団体や行政機関、更に地元市民などの利害関係者(ステークホルダー)とチームをつなぐことを目的として、ビジネス面においてのサッカー事業に重点を置き、クラブ運営をサポートする責務を負う[9]。また同4月より左記のままでテレビ朝日「やべっちFC」のレギュラーコメンテーター(中山雅史と原則隔週交互出演)に就任した。2018年4月には筑波大学の大学院へ入学した[10]。
引退試合
2015年7月5日に柳沢敦、新井場徹と合同での引退試合が行われた。
出場選手
- ANTLERS LEGENDS
- KAY FRIENDS
所属クラブ
- ユース経歴
- 1992年 - 1995年 米子市立後藤ヶ丘中学校
- 1995年 - 1998年 帝京高等学校
- プロ経歴
個人成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
1998 |
鹿島 |
26 |
J |
5 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
5 |
1
|
1999 |
J1 |
17 |
4 |
1 |
0 |
2 |
0 |
20 |
4
|
2000 |
5 |
29 |
4 |
2 |
2 |
5 |
2 |
36 |
8
|
2001 |
25 |
8 |
6 |
0 |
3 |
1 |
34 |
9
|
2002 |
29 |
6 |
3 |
0 |
5 |
0 |
37 |
6
|
2003 |
18 |
3 |
2 |
2 |
0 |
0 |
20 |
5
|
2004 |
21 |
1 |
2 |
0 |
3 |
2 |
26 |
3
|
フランス
| リーグ戦 |
F・リーグ杯 | フランス杯
|
期間通算
|
2004-05 |
マルセイユ |
27 |
リーグ・アン |
5 |
0 |
- |
- |
5 |
0
|
2005-06 |
4 |
0 |
1 |
0 |
- |
5 |
0
|
スイス
| リーグ戦 |
スイス杯 | オープン杯
|
期間通算
|
2005-06 |
バーゼル |
6 |
スイスリーグ |
10 |
1 |
- |
- |
10 |
1
|
2006-07 |
34 |
1 |
5 |
0 |
- |
39 |
1
|
2007-08 |
18 |
1 |
2 |
1 |
- |
20 |
2
|
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
2008 |
鹿島 |
6 |
J1 |
9 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
10 |
0
|
2009 |
22 |
1 |
1 |
0 |
4 |
0 |
27 |
1
|
2010 |
32 |
3 |
1 |
0 |
6 |
1 |
39 |
4
|
2011 |
26 |
2 |
3 |
0 |
1 |
0 |
30 |
2
|
2012 |
5 |
0 |
2 |
0 |
0 |
0 |
7 |
0
|
2013 |
25 |
0 |
6 |
0 |
2 |
0 |
33 |
0
|
2014 |
3 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
4 |
0
|
通算 |
日本 |
J1
|
266 |
33 |
31 |
4 |
31 |
6 |
328 |
43
|
フランス |
リーグ・アン
|
9 |
0 |
1 |
0 |
- |
10 |
0
|
スイス |
スイスリーグ
|
62 |
3 |
7 |
1 |
- |
69 |
4
|
総通算
|
337 |
36 |
40 |
5 |
31 |
6 |
407 |
47
|
その他の公式戦
- 2000年
- 2001年
- スーパーカップ 1試合0得点
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2002年
- 2010年
- 2011年
その他の国際公式戦
- 1998年 - 2002年
- 1999年
- 2003年
- 2005年
- 2006年
- UEFAカップ予備予選1回戦 - 2試合0得点
- UEFAカップ予備予選2回戦 - 2試合0得点
- 2007年
- 2012年
- 2013年
- 出場歴
タイトル
クラブ
- 鹿島アントラーズ
- J1リーグ:5回(1998年, 2000年, 2001年, 2008年, 2009年)
- 2ndステージ:3回(1998年, 2000年, 2001年)
- Jリーグカップ:4回(2000年, 2002年, 2011年, 2012年)
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回(2000年, 2010年)
- FUJI XEROX SUPER CUP:4回(1998年, 1999年, 2009年, 2010年)
- A3チャンピオンズカップ:1回(2003年)
- スルガ銀行チャンピオンシップ:2回(2012年, 2013年)
- マルセイユ
- バーゼル
代表
- 日本代表
個人
代表歴
出場大会
試合数
- 国際Aマッチ 57試合 2得点 (2000-2007)[1]
出場
ゴール
指導歴
- 鹿島アントラーズ - クラブ・リレーションズ・オフィサー(2015年 - 現在)
出演
スポーツ番組
- やべっちFC(2015年4月 - 2020年8月、テレビ朝日) - コメンテーター
Web配信ドラマ
- ヒーローママ☆リーグ(2018年5月13日、東映特撮ファンクラブ) - 風呂洗いする夫 役(写真) - 友情出演
脚注
- 注釈
- ^ 鹿島はここで移籍金を得ると、「30ヶ月ルール」に基づくJリーグクラブへの移籍金請求権を放棄することになる。鹿島強化部は、希望額に沿わないとはいえ移籍金を得ることができたにもかかわらず、他のJリーグクラブによる中田への接触を妨げるために、フリーでの移籍を選んだ。[6]
- ^ a b 内田は負傷中、稲本は体調不良のため出場せず。
- 出典
関連項目
外部リンク
受賞歴 |
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J1 |
1990年代 |
- 93: サントス, 本田泰人, ラモス瑠偉
- 94: 柱谷哲二, 北澤豪, ラモス瑠偉, ベッチーニョ
- 95: 柱谷哲二, ビスマルク
- 96: ジョルジーニョ, 前園真聖, 山口素弘, 名波浩
- 97: ビスマルク, 中田英寿, 山口素弘, 名波浩
- 98: 小野伸二, 奥大介, 藤田俊哉, 名波浩, ドゥンガ
- 99: 中村俊輔, アレックス, 伊東輝悦, 澤登正朗, 福西崇史
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2000年代 |
- 00: 明神智和, 中村俊輔, 稲本潤一, 森島寛晃
- 01: 小笠原満男, 福西崇史, 藤田俊哉, 服部年宏, 中田浩二
- 02: 小笠原満男, 福西崇史, 藤田俊哉, 名波浩
- 03: 小笠原満男, 福西崇史, 奥大介, 遠藤保仁
- 04: 小笠原満男, 長谷部誠, 奥大介, 遠藤保仁
- 05: 小笠原満男, 阿部勇樹, フェルナンジーニョ, 遠藤保仁, 古橋達弥
- 06: 鈴木啓太, 阿部勇樹, 中村憲剛, 谷口博之, 遠藤保仁
- 07: 阿部勇樹, 鈴木啓太, ポンテ, 中村憲剛, 遠藤保仁
- 08: 中村憲剛, 小川佳純, 遠藤保仁
- 09: 小笠原満男, 石川直宏, 中村憲剛, 遠藤保仁
|
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2010年代 |
- 10: 中村憲剛, マルシオ・リシャルデス, 藤本淳吾, ダニルソン, 遠藤保仁
- 11: ジョルジ・ワグネル, レアンドロ・ドミンゲス, 藤本淳吾, 遠藤保仁, 清武弘嗣
- 12: レアンドロ・ドミンゲス, 遠藤保仁, 青山敏弘, 髙萩洋次郎
- 13: 中村俊輔, 山口螢, 柿谷曜一朗, 青山敏弘
- 14: 柴崎岳, 武藤嘉紀, レオ・シルバ, 遠藤保仁
- 15: 金崎夢生, 遠藤保仁, 青山敏弘
- 16: 阿部勇樹, 柏木陽介, 中村憲剛, 齋藤学
- 17: 中村憲剛, 井手口陽介, 山口蛍
- 18: チャナティップ, 家長昭博, 大島僚太, 中村憲剛
- 19: 橋本拳人, 喜田拓也, アンドレス・イニエスタ
|
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2020年代 |
- 20: 家長昭博, 田中碧, 守田英正, 三笘薫
- 21: 家長昭博, 脇坂泰斗, アンドレス・イニエスタ, 稲垣祥
- 22: 家長昭博, 水沼宏太, 脇坂泰斗
- 23: 伊藤敦樹, 脇坂泰斗, 山口蛍
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J2 |
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J3 |
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ベストイレブン(GK - DF - MF - FW) - JCB |
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※記述のない年は該当者なし | 1990年代 | |
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2000年代 |
- 00: 松永成立
- 01: ストイコビッチ
- 02: サントス
- 03: 井原正巳, 福田正博, 北澤豪
- 05: ビスマルク
- 06: 相馬直樹, 小島伸幸, 澤登正朗
- 07: 本田泰人, アマラオ, 城彰二
- 08: 秋田豊, 名良橋晃, 黒崎久志, 山口素弘
- 09: 小村徳男, 加藤望, 名波浩, 福西崇史, 森岡隆三, 森島寛晃
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2010年代 |
- 11: 三浦淳宏, 松田直樹
- 12: 藤田俊哉, 田中誠
- 13: 中山雅史, 土肥洋一, 服部公太
- 14: 伊藤宏樹, 岡野雅行, ジュニーニョ, 服部年宏, 波戸康広, 山田暢久, 吉田孝行, ルーカス
- 15: 宮本恒靖, 柳沢敦, 中田浩二, 新井場徹, 藤本主税
- 16: 山口智, 鈴木啓太
- 17: 市川大祐, 大島秀夫
- 18: 石原克哉, 加地亮, 坂田大輔, 土屋征夫, 羽生直剛
- 19: 小笠原満男, 川口能活, 中澤佑二, 楢﨑正剛, 播戸竜二, 巻誠一郎, 森﨑和幸, アレックス
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2020年代 |
- 20: 佐藤勇人, 那須大亮, 明神智和
- 21: 大黒将志, 佐藤寿人, 清水健太, 曽ヶ端準, 徳永悠平, 中村憲剛, 前田遼一
- 22: 青木剛, 阿部勇樹, 石原直樹, 大久保嘉人, 角田誠, 小林祐三, 高橋義希, 田中達也, 田中マルクス闘莉王, 田中佑昌, 玉田圭司, 谷澤達也
- 23: 上里一将, 大谷秀和, 駒野友一, 田中隼磨, 鄭大世, 富田晋伍, 中村俊輔, 橋本英郎, 藤本淳吾, 槙野智章, 水本裕貴, 本山雅志, 赤嶺真吾
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Jリーグアウォーズ(最優秀選手賞 - JB11 - 得点王 - JBYP賞 - JFP個人賞 - J2MEP - 功労選手賞 - 最優秀監督賞 - 最優秀主審賞 - 最優秀副審賞 - JBP賞) |
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