嶋田 信敏 |
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YouTube |
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チャンネル |
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活動期間 |
2019年3月16日 - |
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ジャンル |
野球、音楽 |
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総再生回数 |
47,304回 |
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チャンネル登録者数・総再生回数は 000000002021-10-16-00002021年10月16日時点。 |
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嶋田 信敏(しまだ のぶとし、1960年4月9日 - )は、福井県武生市(現:越前市)出身[注 1](神奈川県生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者、YouTuber。
「島田 信敏」と表記される場合もある[注 2]。選手時代の愛称は「ノブ」[注 3]。
妻は、フリーアナウンサーの西野七海[注 4]。
来歴・人物
日大藤沢高校では2年次の1977年秋季関東大会神奈川県予選で準々決勝に進むが、日大高に敗退。その後も県予選で敗れ甲子園には出場できなかったが、自身は控え投手であった。
1978年に日本ハムファイターズへドラフト外でテスト入団。二軍暮らしが長く、一軍では主に守備固め[注 5]やバント要員、代走で使われることが多かった。
1986年には一軍に定着。
1990年には鈴木慶裕に代り中堅手のレギュラーを獲得、同年は86試合に先発出場し、規定打席には届かなかったものの打率.262、6本塁打の好成績を残す。
1991年には指名打者のマット・ウインタースが外野に回り、大内実の台頭もあってシーズン後半に定位置を失う。
1994年限りで現役を引退。
引退後は堅実な守備能力を買われ、日本ハム二軍外野守備・走塁コーチ(1995年 - 1996年)を務めた[注 6]。
1997年からソニー生命に営業マンとして勤務する[1] 傍ら、テレビ埼玉「TVSヒットナイター」解説者を務めた[注 7]。
1999年は相模原クラブにコーチ兼外野手として所属した[1]。
2000年に大島康徳監督の要請で日本ハムのコーチへ復帰。
2003年まで一軍コーチとして外野守備・走塁コーチや一塁ベースコーチを務めた[注 8]。その後、「FULL-COUNT」という野球教室を運営する[16] 傍ら、2005年に北海道放送(HBCラジオ)の野球解説者を務めていた[注 9]。
2004年からはプロ野球マスターズリーグの札幌アンビシャスに外野手として参加していた[注 10]。
2006年春からは高千穂大学硬式野球部の監督を務める[21][注 11]。それに伴い、「FULL-COUNT」の閉鎖および一切の野球評論活動を中止[注 12]。
2007年秋に東京新大学野球連盟2部リーグ3連覇[21]、対杏林大学入れ替え戦も制し[21]、4季ぶりの1部リーグ復帰を果たしている[21]。また、高校時代に控え野手だった戸田亮(のち、JR東日本硬式野球部を経てオリックス・バファローズへプロ入り)に投手転向を命じている[23]。三ツ間卓也投手も後にプロ(中日)入りしている。試合では三塁ベースコーチを務めることもあり、背番号はプロ野球時代の54等を着けていた。
2016年度を最後に監督を退任した[注 13]。
2017年4月14日にはABEMAで配信の横浜DeNAベイスターズ主催試合中継で解説者としての活動を再開している[注 14]。また赤坂見附にUTANOBというカラオケスナックを開店したが2022年3月に閉店。
プロ選手時代の応援歌は、コンピュータゲーム『ドルアーガの塔』のエンディングテーマ曲が原曲。後に奈良原浩の応援歌として引き継がれた。
2020年より埼玉西武ライオンズ・レディースのヘッドコーチに就任。
同年8月末をもって退団。
詳細情報
年度別打撃成績
年
度 |
球
団 |
試
合 |
打
席 |
打
数 |
得
点 |
安
打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁
打 |
打
点 |
盗
塁 |
盗 塁 死 |
犠
打 |
犠
飛 |
四
球 |
敬
遠 |
死
球 |
三
振 |
併 殺 打 |
打
率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S
|
1983
|
日本ハム
|
24 |
9 |
9 |
1 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
.111 |
.111 |
.111 |
.222
|
1984
|
24 |
8 |
7 |
1 |
1 |
1 |
0 |
0 |
2 |
1 |
1 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
.143 |
.125 |
.286 |
.411
|
1985
|
5 |
14 |
13 |
6 |
6 |
1 |
0 |
1 |
10 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
2 |
0 |
.462 |
.500 |
.769 |
1.269
|
1986
|
71 |
91 |
81 |
16 |
22 |
4 |
0 |
2 |
32 |
9 |
1 |
0 |
3 |
0 |
7 |
0 |
0 |
11 |
1 |
.272 |
.330 |
.395 |
.725
|
1987
|
35 |
22 |
18 |
5 |
2 |
0 |
0 |
0 |
2 |
1 |
0 |
0 |
2 |
0 |
2 |
0 |
0 |
12 |
0 |
.111 |
.200 |
.111 |
.311
|
1988
|
84 |
86 |
78 |
11 |
16 |
3 |
0 |
1 |
22 |
8 |
2 |
0 |
3 |
1 |
4 |
0 |
0 |
20 |
3 |
.205 |
.241 |
.282 |
.523
|
1989
|
94 |
59 |
56 |
14 |
13 |
2 |
0 |
1 |
18 |
7 |
6 |
5 |
3 |
0 |
0 |
0 |
0 |
10 |
0 |
.232 |
.232 |
.321 |
.554
|
1990
|
113 |
318 |
279 |
33 |
73 |
14 |
1 |
6 |
107 |
34 |
6 |
7 |
15 |
2 |
20 |
0 |
2 |
60 |
4 |
.262 |
.314 |
.384 |
.697
|
1991
|
101 |
188 |
174 |
17 |
40 |
6 |
0 |
2 |
52 |
13 |
2 |
2 |
5 |
2 |
6 |
0 |
1 |
51 |
4 |
.230 |
.257 |
.299 |
.556
|
1992
|
63 |
72 |
61 |
11 |
16 |
1 |
0 |
1 |
20 |
5 |
2 |
2 |
7 |
0 |
4 |
0 |
0 |
13 |
1 |
.262 |
.308 |
.328 |
.636
|
1993
|
59 |
36 |
35 |
6 |
8 |
2 |
0 |
0 |
10 |
3 |
3 |
2 |
0 |
0 |
1 |
0 |
0 |
11 |
0 |
.229 |
.250 |
.286 |
.536
|
1994
|
5 |
5 |
5 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
2 |
.000 |
.000 |
.000 |
.000
|
通算:12年
|
678 |
908 |
816 |
122 |
198 |
34 |
1 |
14 |
276 |
84 |
24 |
18 |
38 |
6 |
45 |
0 |
3 |
194 |
15 |
.243 |
.283 |
.338 |
.621
|
記録
背番号
[注 16]
- 54 (1979年 - 1983年)
- 39 (1984年 - 1994年)
- 83 (1995年 - 1996年)
- 82 (2000年 - 2003年)
関連情報
出演番組
いずれも、解説者として出演のプロ野球中継。
脚注
注釈
- ^ 参考:出身地に関する情報…
- 神奈川県「生まれ」…ウェブ記事(2000年[1])
- 福井県…名鑑(1997年[5])、ウェブ(2004年[6]、2005年[7])
- ^ 名鑑(1991年[3]、2000年[13])
- ^ 参考:日本ハム外野手時代のプロ野球名鑑…[2]
- ^ 2016年9月2日にTBSテレビで放送された番組『爆報! THE フライデー』にて、西野七海の近況を紹介する際、西野の夫として紹介された[14]。
- ^ 野球解説者時代のプロ野球名鑑より、選手時代について「16年のほとんどを外野の守備要員ですごすも、いま風のソース顔で人気あり」と記述[8]。
- ^ 1995年から1996年まで日本ハム二軍コーチだったことは次の資料を[15]、同外野守備走塁コーチだったことは次の資料を[16]、それぞれ参照。
- ^ a b 1997年のプロ野球名鑑より、テレビ埼玉の解説者として紹介[5]。1998年のプロ野球名鑑より、テレビ埼玉の解説者として紹介し、「異例の抜擢という型で昨年デビュー。先輩後輩良き仲間ばかりのハム中心の放送だが戸惑いながらの1年の経験生かせ。」と記述[8]。1999年のプロ野球名鑑より、3年目とした上でテレビ埼玉の解説者として紹介[9]。1999年にTVS解説者を務めていたことは次の資料を参照…[13]
- ^ 2000年から2003年まで日本ハム一軍コーチだったことは次の資料を[15]、同外野守備走塁コーチだったことは次の資料を[16]、それぞれ参照。
- ^ a b 参考…[17][18][19]
- ^ 2004年当時のプロ野球マスターズリーグ公式サイトを参照[20]。
- ^ 長らく肩書きは「監督代行」であった。
- ^ 規定により並行はできないため。外部リンクより、FULL-COUNT公式サイト内閉鎖のお知らせを参照[22]。
- ^ 2017年4月1日付で安部理が正式に監督就任した[24][25]。
- ^ a b 参考…[26][27]
- ^ 初出場年月日・対戦相手は次の資料を参照…1995年の名鑑[4]。 ※なお、球場名は所在地である「盛岡」と記載される場合あり[4]。
- ^ 日本ハムでの背番号の変遷については、次の資料を参照…[15]
出典
参考資料
- スポーツニッポン新聞社編『'91スポニチプロ野球手帳』(1991年2月24日印刷発行、洋々社発売[1]) ISBN 4-89674-091-2
- 『プロ野球12球団全選手百科名鑑』シリーズ(日本スポーツ出版社発行)
- 『'97プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1997年3月号増刊。1997年3月31日、日本スポーツ出版社発行)
- 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。1998年3月31日、日本スポーツ出版社発行)
- 『'99プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1999年3月号増刊。1999年3月31日、日本スポーツ出版社発行)
- 『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズ(日本スポーツ出版社発行)
- 『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(『ホームラン』2000年3月号増刊。2000年3月31日発行)
- 『12球団全選手カラー百科名鑑2003』(『ホームラン』2003年3月号増刊。2003年3月29日発行)
- 『週刊ベースボール』2005年2月26日増刊号「2005プロ野球全選手写真名鑑」(ベースボール・マガジン社発行)
- 『ラジオ番組表』2005年春号(『三才ムック』vol.102。2005年5月発売・6月1日発行、三才ブックス)ISBN 4861990076
- 『日本プロ野球80年史 1934-2014』(2014年12月、ベースボール・マガジン社発行) ISBN 978-4-583-10668-7
- 各種外部リンク
脚注
- ^ 『'91スポニチプロ野球手帳』目次ページ(P1)内発行情報欄より(発行クレジット無し)。
関連項目
外部リンク