聖ミカエル修道院は1124年にプレモントレ会(英語版)によって設立された[2]。修道院はネーデルラント諸国で最も強力な宗教団体の一つに成長したが、16世紀になると様々な災害に襲われた。修道院は1501年に落雷に見舞われ、1524年にクロッシングの塔で火災が発生した。さらに1566年のカルヴァン派によるビルダーシュトゥルム(英語版)と1576年のスペインの狂暴(英語版)の間に、建築物の一部が暴徒によって破壊された。1620年には教会で大規模な火災が発生した[2]。修道院長マタイス・ファン・イールセル(Matthijs Van Eerssel)がルーベンスに本作品を発注したのはそれから4年後の1624年のことであった。この年は修道院の創立からちょうど500年後にあたり、そのことがルーベンスに祭壇画が発注された理由の一端であったと考えられている。報酬は1,500ギルダーであった[2]。
ルーベンスは記念碑的な人物像とバロック様式の空間を用いて、幼児キリストを礼拝する三博士を描いている。聖母マリアと聖ヨセフは画面右側で飼い葉桶の中の幼児キリストを東方の三博士に示している。聖母マリアの配置された場所は画面の中央ではないが構図の中心であり、その身振りは誇らしげである[2]。画面中央で右手を胸に当ててひざまずき、最も幼児キリストに近い場所で礼拝しているのはカスパール(英語版)である。彼は白い衣装を身にまとい、左手に香炉を持っている。ルーベンスの描写は伝統的な東方三博士の礼拝とは少し異なっている。一般的な作品では幼児のキリストに最も近い場所に描かれているのは最年長者のメルキオールであるが、ルーベンスはその位置にカスパールを配置している[2]。この配置は現在プラド美術館に所蔵されている初期の『東方三博士の礼拝』(Aanbidding door de koningen)でも同じである。さらに、カスパールは典礼衣装であるサープリス(英語版)とストールを身に着ている。この革新的表現によって、ルーベンスは『新約聖書』の物語を聖体秘跡の典礼であるミサと結びつけている[2]。同じく画面中央のカスパールの奥には頭にターバンを巻いたバルタザール(英語版)が立っており、右手に没薬が入った壺を持っている。画面左側では赤い服を着たメルキオール(英語版)がカスパールの後方で金貨を乗せた高坏を右手に持った姿で立ち、視線を鑑賞者の側に向けている。また多くの召使や兵士、ラクダに乗った人夫たちが三博士につき従っている[2]。
ルーベンスは聖書の時代の人物たちを画家の同時代の東方の衣装で描いた。たとえば、ルーベンスは1619年頃にアレッポからアントウェルペンに戻った商人ニコラス・デ・レスペニヤ(Nicolas de Respaigne)の肖像画を東方の衣装で描いており、このときの図像に基づいてバルタザールを描いている[2]。