笠智衆
笠 智衆(りゅう ちしゅう[1]、1904年〈明治37年〉5月13日[1][2] - 1993年〈平成5年〉3月16日[2])は、日本の俳優。身長171cm[3]。 1925年(大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演した。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも、木下惠介、岡本喜八、山田洋次、黒澤明等の監督の作品に登場し、貴重なバイプレーヤーとして活動した。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。 経歴映画俳優へ熊本県玉名郡玉水村[1](天水村、天水町を経て、現在の玉名市)立花で父・淳心、母・トシの次男として生まれる。生家は浄土真宗本願寺派来照寺[4]で、父が住職を務めていた。「笠智衆」という名前は本名である。玉水村立玉水尋常小学校、熊本県立玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校)を卒業[4]後、龍谷大学(京都市)に進学した。兄が台湾へ行っていたため、寺を継ぐ予定だったことから、父から強く勧められてのことだったが、寺を継ぐ気はなく大学にはほとんど行かなかったことが父に知れて中退した。その後、旧制の東洋大学[1]印度哲学科に入学した。大学は実家の寺を継ぐために進学すると両親には告げていたが、実際にはその気はなかった。 1925年(大正14年)2月[5]、新聞で研究生募集の広告を見た友達にひやかし半分で勧められ[5]、松竹蒲田撮影所の俳優第一期研究生の募集に合格し、入所した[1]。映画俳優になることは本意ではなかったが、住職以外ならどのような職業でもよかった。それでも同年7月に父の死で仕方なく4ケ月住職を継ぐが[5]、結局翌1926年(大正15年)1月、兄にその座を譲って再度上京し松竹蒲田撮影所に復帰した[4]。10年以上大部屋俳優時代を過ごし、大半が通行人などの端役での出演であった[1]。月給25円で食べていけるギリギリの額だった[5]。 小津安二郎作品の出演 - 名俳優へ1928年(昭和3年)、小津安二郎監督の『若人の夢』に端役で出演し、以降『学生ロマンス 若き日』などサイレント期の小津作品に断続的に出演した(いずれも端役)。1936年(昭和11年)公開の『大学よいとこ』で主演級の役を演じ、同年公開の『一人息子』では、当時32歳ながら初めて老け役を演じた。これが出世作となり、他の監督の作品にも脇役や主要な役で出演するようになった。また、1937年(昭和12年)公開の『仰げば尊し』(斎藤寅次郎監督)で初主演した。 1942年(昭和17年)に公開した小津監督の『父ありき』で主演(小津作品の中では初主演)し、7歳年下の佐野周二の父親を演じ、以降小津作品に欠かせない存在となった。戦後の小津作品には全作出演している。『晩春』では原節子の父親を演じ、『宗方姉妹』では4歳下の田中絹代の父親、『東京物語』では1歳しか歳の変わらない杉村春子、5歳下の山村聡らの父親で15歳も年上の東山千栄子と夫婦を演じるなど、老け役として見事な演技を披露した。逆に、『麦秋』では2歳年下の菅井一郎の長男役で出演している。そのほか、『秋刀魚の味』でも岩下志麻の父親を演じた。小津作品の出演によって声価を高めた笠は、日本映画界を代表する俳優となり、小津作品で多く父親役を演じたことから「日本の父親像」を確立したと評された。 小津作品では主演で迎えられ、そのほかの作品では脇役として出演した。 1969年からは山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズに柴又帝釈天の御前様(坪内住職)役で出演した。 黒澤明監督作品には3本出演した。 生涯で約90本のドラマに出演し、向田邦子、倉本聰、山田太一といった脚本家からは指名で出演することも多かった[注釈 1]。 1993年3月16日午後2時13分、満88歳で死去した[6]。墓所は北鎌倉の成福寺。亡くなる数年前からは膀胱癌を患うなど健康を害していたが、最期まで現役を全うし存在感を維持し続けた。亡くなる約3か月前に封切られた映画『男はつらいよ 寅次郎の青春』(シリーズ第45作、1992年)が遺作となった。『サラダ記念日』から『青春』までは癌になっていた影響で出演シーンは笠の自宅で撮影しており、出番は少なくなっている。 没後没後も2000年、キネマ旬報による「20世紀の映画スター・日本編」で男優部門の5位に選ばれるなど、根強い人気を誇っている。 没後30年となる2023年には、玉名市歴史博物館で企画展「俳優 笠智衆」が開催された[7]ほか、1月22日にはテレビ熊本のドキュメンタリードラマ「郷土の偉人シリーズ」第30作として、智衆の一生を描いた伝記ドラマ『名優 笠智衆 〜春風のあるがごとし〜』(演:小日向春平→小日向文世)が放送された[8][9]。 2024年には生誕120年を迎える。9月23日から開幕した「第27回小津安二郎記念蓼科高原映画祭」では28日に、節目の年を記念し、笠智衆初主演作品「父ありき」を茅野市民館にて上映予定[10]。 人物「明治の男は泣かない」笠は演技について演出家と対立するようなことはなかったが、自ら泣くシーンを演じることは拒否していた。「明治生まれの男が泣くことはめったにない」というのがその理由である。小津作品でも小津の「言われたとおりに演技をした」笠であるが、『晩春』のラストで笠が林檎の皮を剥いてから慟哭するというシーンに対して「これはできません」と申し出、小津がそれを認めて、うなだれるシーンに変更した。後にこのシーンを「居眠りをしている」と批評した評論家に対して大変憤りを感じたと語っている[11]。 泣くシーンとしては1982年のテレビドラマ『ながらえば』[12]で遠方に入院している妻を見舞い「寂しい」と言って涙を拭うシーンとして登場するが、これは涙を拭う真似をしているだけで、実際には泣いていない。初めて泣くシーンは1983年のテレビドラマ『波の盆』で、日本の敗戦に悔し涙を流し死期の迫った妻の前で号泣する老人の役を演じた。2年後の『冬構え』では、自殺を図るが未遂に終わり旅館で1人泣くシーンの撮影に際しても笠は泣くことを拒否したが、脚本を担当した山田太一の依頼に応じ演じた。後に山田は「美しい」と感動した[13]が、笠自身は違和感を覚えていた[11]。 「日本の父親」から「日本のおじいさん」へ1990年代に入ってからは『男はつらいよ』の「御前様」の印象から、特に若い女性層から「優しいおじいさん」として人気が高かった。NHKでは笠の亡くなった直後に追悼番組として主演ドラマ『今朝の秋』を放映したが、放映後に笠を悼む感想が多数寄せられた。その中でも多かったものが、笠を自分の祖父のように思い、笠の死が自分の祖父が亡くなったように思えて悲しい、という内容であった。NHKではこれらの感想を中心に構成された番組を放映し、笠との共演が多かった杉村春子がナレーションを担当した。杉村自身も手紙の多さに驚き、笠の人気の高さに感動したと述べている。 熊本訛り笠には出身地である熊本の強い訛りがあった。この訛りは生涯抜くことができず、笠の台詞回しの大きな特徴となっている。デビュー当初は、この訛りが障壁となって、俳優としての出世を遅くさせる結果となった。しかしこの強い訛りが、笠の実直で朴訥とした性格を滲み出し、他の俳優にない独特の個性を引き出すことになった。戦後小津安二郎以外の多くの著名な監督の作品に出演できたのも、この熊本訛りにより表出される実直さや素朴さによるところが大きい。 昭和初期から中期までの映画の世界では、俳優は関東・関西出身でなくても関東・関西の言葉で台詞を話すのが基本となっていた。その中でこのように訛りを個性にした俳優は、他には「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」で知られた福岡県豊前市出身の大河内傳次郎がいる程度で、日本の俳優では稀有な存在であった。 なお、山本夏彦は、『写真コラム』に『笠智衆だいっきらい』という、笠の熊本訛りを批判した一文を記している。このコラムは大きな反響を呼び、抗議の投書が殺到したという。 家族長男の笠徹は東宝に入社した。社員だったが、映画『日本のいちばん長い日』では俳優として智衆と共演した。没後の1994年に『春風想 - 父・笠智衆の思い出』を著した。笠兼三は孫で俳優である。 受賞歴
出演映画
テレビドラマ
テレビCM文献著書
関連文献
脚注注釈出典
参考文献
外部リンクInformation related to 笠智衆 |