琵琶湖 (びわこ)は、滋賀県 にある日本最大 の面積 と貯水量を持つ湖 。一級水系 「淀川 水系」に属する一級河川 である。国土交通大臣 から委託を受けて滋賀県知事が管理を担う。湖沼水質保全特別措置法 指定湖沼で、ラムサール条約 登録湿地 でもある。
古くは淡海・淡海の海・水海・近江の海・細波・鳰 ( にお ) の海などとも呼ばれ、「びわ湖」「びわこ」と表記されることもあるほか、「Mother Lake 」の愛称や「近畿の水瓶 」の別称で呼ばれることもある。
約440万年前に形成された古代湖 であり、40-100万年ほど前に現在の位置に移動してきた。内湖 ( ないこ ) を含む多様な地形や多数の固有種を含む豊かな生態系をもっているが、近現代の開発により失われたり減少したりした地形や種もある。古くから近畿地方の水運 ・水利 ・漁撈 における役割を担い、近江八景 などをとおして景勝地としても知られ、作品の題材となることも多いほか、環境保全活動も盛んにおこなわれている。
琵琶湖
地理
航空写真
琵琶湖は鈴鹿山地 ・伊吹山地 ・野坂山地 ・比良山地 ・甲賀山地 といった山々に囲まれた滋賀県 の近江盆地 に位置する。面積は669.26平方キロメートル で、滋賀県 の面積の6分の1を占め、日本最大 である。貯水量は275億トン で、こちらも日本一である[注 1] 。湖底が最も深い水域は竹生島 と安曇川 河口 の間にあり、2005年には104.1メートル [注 2] の最大水深が計測された。南北の延長は長浜市西浅井町塩津 – 大津市 玉野浦間で63.49キロメートル 、最広部は長浜市 下坂浜 – 高島市新旭町饗庭 間の22.8キロメートル、最狭部は守山市 水保町 – 大津市今堅田 間の1.35キロメートルである。流域面積 は後述 するように3848平方キロメートルで、淀川 流域の47パーセントに当たる。
最狭部に架かる琵琶湖大橋 を挟んだ北側の主湖盆を北湖 (太湖)、南側の副湖盆を南湖 と呼ぶ。面積58平方キロメートル・平均水深 4メートルの南湖に対し、北湖は面積623平方キロメートル・平均水深41メートルであり、湖水の99パーセント は北湖に蓄えられている。
東京湾平均海面 (T.P. )基準でプラス84.371メートル、大阪湾最低潮位 (O.P. )基準でプラス85.614メートルの高さが琵琶湖基準水位(B iwako S urface L evel 、B.S.L. )と定められている。B.S.L.は、1874年に鳥居川観測点において「これ以上水位が下がることはない」と判断して定められたものと推測されているが、その後、後述 するように瀬田川 が改修されたため、さらに水位を下げることが可能となり、2000年ごろまでには満水位を意味するようになった。1992年制定の瀬田川洗堰操作規則では、大津市三保ヶ崎 および堅田漁港・高島市大溝 漁港・長浜市高月町 片山漁港・彦根港における計測水位の平均値が琵琶湖の水位とされている。
琵琶湖周辺の地域区分(湖南・湖東・湖北・湖西)については「
滋賀県#地域区分 」を参照
湖底
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主に: 湖底段丘と活構造 (2021年3月 )
琵琶湖の湖底地形は、北湖の北湖盆・中湖盆と南湖(南湖盆)に分けられる。若い地形であり水深70メートルを超す北湖に対し、南湖は湖沼の発達ステージの終末状態に近く、水深5メートル以下である。逆くの字型の平面形態を示す北湖の湖底地形は、北西 - 南東方向の北湖盆(深度80 - 90メートル)と北東 - 南西方向の中湖盆(深度75メートル前後)に分かれており、沖島 (後述 )北側付近には両者を分ける靴状の湖底地形がある。北湖盆と中湖盆のいずれも、東側は傾斜 が緩く、西側は傾斜が急である。北湖岸においては、若いリアス状 の地形が湖底へと続く。また、後述 の湖中島 ( こちゅうとう ) のほか水没島も存在する。
琵琶湖中央の湖底には、900メートルの土砂が堆積 しており、その下には500メートルほどの岩盤 がある。南湖の烏丸半島 付近にも900メートルの土砂が堆積しているが、琵琶湖全体でみると岩盤や土砂の厚さは一定ではない[注 3] 。
湖岸
近江八幡市 の湖岸
琵琶湖湖岸の構造は多様であり、そのため後述 するように生物も多様である。傾斜は西岸は急で東岸は緩やかな傾向にあり、下記の山地系湖岸を除く77パーセントは、流入河川の造営力を受けた平野 ( へいや ) 系湖岸である。また、底質 と植生 から次の3つに分類することができる。
岩礫型湖岸
北湖北岸と長命寺 付近の山地系湖岸。岩や岩礁 が主体。
砂質型湖岸
北湖の多くを占める。小礫や砂が主体。
砂泥型湖岸
最も植生が豊かであり、泥の堆積の発達に伴い、植物群落 が発達する。
湖岸域には陸上生物圏 と水中生物圏をなだらかに繋ぐ推移帯 (英語版 ) [注 4] が広がり、生物多様性 への寄与や水質浄化機能といった様々な役割を果たしてきた。しかし第二次世界大戦 後、大規模な護岸工事 などにより人工湖岸が増え[注 5] 、推移帯としての面積は大幅に減少した。
琵琶湖周囲の約50キロメートルには湖岸堤・管理用道路が建設されており、県道としても利用されている[注 6] 。またそのほぼ全区間には前浜 ( まえはま ) と呼ばれる消波帯が設けられており、堤防の高さを低く抑える効果に加え、親水空間としての役割も果たしている。湖岸堤により分断された生物環境については、「マザーレイク21計画」や「琵琶湖・淀川流域圏の再生計画」において堤脚水路の再自然化が掲げられており、連続性の再生を目指した試験的なビオトープの造成が2003年以降実施されている。
内湖
昭和 初期の安土山は小中湖(手前)と大中湖(奥)に囲まれていた。
琵琶湖の周囲には、琵琶湖の一部が土砂の堆積などにより切り離されてできた内湖 ( ないこ ) と呼ばれる潟湖 がある。内湖は、琵琶湖とは水路で結ばれているため水位変動の影響を受ける。以下で述べるように20世紀に多くの内湖が消失し、2013年現在残されているのは、近江八幡市 の西の湖 をはじめとする総面積4.25平方キロメートル[注 7] の23内湖 ( ないこ ) のみである。
かつて琵琶湖周辺に存在した内湖 ( ないこ ) の図
昭和 初期ごろまで、琵琶湖の周囲には大小40あまり、総面積29平方キロメートル(1940年時点)の内湖 ( ないこ ) があった。これらの内湖 ( ないこ ) は、繁茂するヨシ などにより河川より流入する水を浄化する機能や、魚類の産卵・生育の場、あるいは堆積した泥による肥料の提供といった役割を担ってきた。また後述 するように、今津 や堅田 といった津 の発展において船溜まり としての役割を果たしたほか、安土城 や大溝城 の立地にも影響を与えた。
近代に入ると、後述 する1905年の南郷洗堰 の築造や1943年から治水・利水を目的として開始された淀川第1期河水統制事業 の影響で琵琶湖の平均水位が10センチメートルほど下がったため、内湖 ( ないこ ) の水深も浅くなり、内湖 ( ないこ ) 漁業は衰退した。さらに第二次世界大戦後 には、人口増加・食糧不足に対応するための農地開発として16箇所、総面積25平方キロメートルあまりの内湖 ( ないこ ) が干拓され消失した。なお、1985年 - 1990年にかけては、琵琶湖総合開発事業 による湖周道路の敷設により琵琶湖の一部が切り離され、内湖 ( ないこ ) 化した例もある。また、長浜市 において2001年より干拓農地の一部を湛水しての早崎内湖 ( ないこ ) ビオトープ 実験がおこなわれるなど、内湖 ( ないこ ) 再生の試みも行われている。
湖中島
琵琶湖には沖島 ・竹生島 ・多景島 の3島がある[注 8] 。沖島は近江八幡市 の沖合い1.5キロメートルに位置する周囲約6.8キロメートル・面積約1.53平方キロメートルの島で、淡水湖沼の有人島としては日本唯一である。竹生島は長浜市 の沖合6キロメートルに位置する周囲約2キロメートル・面積約0.14平方キロメートルの島[42] 、多景島は彦根市 の沖合い5キロメートルに位置する周囲約600メートル・面積約0.012平方キロメートルの島である[43] 。竹生島と多景島には寺院があり、竹生島は西国三十三所 や琵琶湖八景 に含まれている。このほか、多景島から西に4キロメートルの地点には沖の白石 が、草津市 には1978年ごろに着工された人工島 の矢橋帰帆島 がある。またかつて[注 9] は、奥島 (近江八幡市)も独立した島であった。
なお、湖北町延勝寺地先には「奥の洲」と呼ばれる浅水域があり[49] 、その水面上にある小島も「奥の洲」と称されている[50] (奥の洲は湖面の水位が低下すると地続きとなる[51] )。
河川
姉川 三角州
安曇川 三角州
琵琶湖には117本の一級河川 を含む約450本の流入河川があり、周囲の山地 からの流れを源流 とする。主な流入河川としては、湖南・湖東では野洲川 ・日野川 ・愛知川 などが、湖北では姉川 ・高時川 ・余呉川 などが挙げられる。湖西には大きな河川は安曇川 しかなく、ほかは比良山地からの小河川である。この内、野洲川と安曇川以外は50キロメートル未満で、急勾配・出水 のしやすさ・渇水 の多さを特徴とする。中世 後期以降、一部の河川は天井川 化しており、それにともない湖岸の土砂堆積状況が変化し、河口 域では三角州 の発達した例や逆に陸地が後退した例がある。
流出河川は、堅い岩盤でできた山の間を細く抜けていく瀬田川 のみであり、宇治川、淀川 と名前を変えて、大阪湾 (瀬戸内海 )へ至る。瀬田川には、琵琶湖の水位調整と下流域の治水 ・利水のために瀬田川洗堰 が設けられている。琵琶湖からの流出経路は、これに琵琶湖疏水 (第一、第二)および宇治発電所水路を加えた計4か所である。瀬田川の周りの山に水が堰き止められていることは、琵琶湖が湖として成立している要因の一つである。琵琶湖の治水・利水・交通などにおける淀川や琵琶湖疏水との関係については、後述 する。
行政上の扱い
琵琶湖の河川法 上の扱いは、淀川 水系の一級河川 である。琵琶湖は国土交通大臣が管理する大臣管理区間ではなく、全体が指定区間 に指定され滋賀県知事に管理が委託されている[注 10] 。
琵琶湖と瀬田川の境界は、東海道本線 の瀬田川橋梁から250メートルほど上流側の地点[注 11] である。これは、かつては瀬田の唐橋の位置とされていたものが、1894年の「淀川改良工事計画」において約1キロメートル上流に移されたのち、1896年の旧河川法において滋賀郡石山村 と栗太郡瀬田村 の間に定められ、さらに1965年の河川法 改正に伴い指定され直したものである。
琵琶湖が所属する市は次のとおりである(北から時計回り)。各市名の右に、市ごとの琵琶湖の面積(単位:平方キロメートル)を示す。
琵琶湖の市町境界については、かつて、どの市町にも組み入れられていなかった。2007年5月8日、沿岸の各自治体による共同会議において境界の設定に合意し、各自治体の議会の同意を得た上で総務省 に届け出を行い、9月28日付で『官報 』に確定が公示された。境界確定の目的は主に地方交付税交付金 の増額である。また、増額された交付金の半分は琵琶湖の保全に使われることが発表されている。
歴史
自然史
古琵琶湖層群
琵琶湖は世界有数の古代湖 [注 12] であり、その成立はおよそ440万年前 [注 13] まで遡る。以降現在に至るまでの琵琶湖の各時代の環境は、古琵琶湖層群 と呼ばれる三重県から滋賀県にかけて分布する地層 における各累層 の泥 ・砂 ・礫 の構成比率の違いにより示されている。
440万年ほど前に琵琶湖が生まれたのは、後の三重県伊賀市 である。まず、地盤 の断層 運動によりできた浅い窪地 に水が溜まり、40 - 50万年ほどかけて浅くて狭い湖となった(断層湖 )[注 14] 。この湖は、旧大山田村 付近にあったことから、大山田湖と呼ばれる。300万年ほど前になると、この湖は阿山地方 にまで北上した。この時代の前期に湖は広がり、後期には甲賀地方 (滋賀)に位置する北部の沈下により狭くて深い湖となった(阿山・甲賀湖、佐山湖)。260万年ほど前にはさらに北上し、水口地域 ・日野地域 ・多賀地域 にまで広がっていった。この時期には蒲生湖沼群と呼ばれる小さな三日月湖 などが多数集まった沼沢地 群になり、その後さらに河川とその周囲の湿地 といった環境[注 15] になるなど、不安定な水域 であった。この時代に水の流出方向は伊勢湾 方面から京都 ・大阪 方面に変わったと考えられている[注 16] 。
現在滋賀と三重 ・岐阜 両県の水系 を分断している鈴鹿山脈 は、180万年ほど前に隆起 し始めた[注 17] 。100万年ほど前 になると、現在の南湖の位置に堅田湖と呼ばれる小さな湖が形成された。同じころ、現在の北湖中央付近にも湖があったがその後陸地化したことが、地層の調査に基づき推定されている。また90万年ほど前には、現在の北湖中央を南北に横切る山地があった。その後琵琶湖の周辺に大きな地殻変動が生じ山地が隆起した43万年ほど前に、北湖の地域にまで琵琶湖は広がり、以降北進することなく現在にまで至っている[注 18] 。40万年ほど前の琵琶湖は現在よりも細長く、その後東へ向けて広がったと考えられている。
環境史
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主に: 近現代の琵琶湖総合開発事業 関連など (2022年1月 )
葛籠尾崎湖底遺跡
1918年ごろの琵琶湖
本節では、環境史 (英語版 ) を中心に石器時代以降の琵琶湖の歴史について概説する。交通・治水・利水・漁撈・環境保全といった各分野における詳細については後述 する。
琵琶湖には90を超える湖底遺跡 があり、縄文時代 後期から近代初期にかけてを存続の終期とするそれらからは、琵琶湖周辺の生活や文化の歩みを窺い知ることができる[注 19] 。一方、近世以前の琵琶湖についての史料 は限定的であり、湖岸域の土地利用は変化しやすく支配関係の把握が難しいといった問題もあるため、琵琶湖の環境史研究は発展途上である。後述 するように琵琶湖では古くから湖上交通や漁撈がおこなわれおり、その拠点として多くの集落が発達しており、津・浦・浜などの文字を含む地名からは、その成立における琵琶湖との密接な結び付きをうかがえる。
琵琶湖が現在の位置に定まったのは、旧石器時代 末期ごろであり、琵琶湖周辺ではこのころの石器 が発見されているが、詳細は不明である。縄文早期後半の石山貝塚 などの遺跡からは淡水産の魚介類の貝殻や骨が発見されており、一部山間部にも居住の痕跡はあるが、湖畔での居住を好んだ傾向が窺える。また後述 するように、縄文後期には丸木舟 が使用されていたことも判明している。弥生 前期から中期にかけての湖底遺跡からは、土器 ・木器 ・石器・炭化米や環濠 などが発見されており、灌漑 ・排水が比較的容易であり漁撈 の便もよい琵琶湖畔において、初期の稲作 が多く営まれていたと推測できる。
後述 するように、大津京 遷都がおこなわれた飛鳥時代 以降、多くの歌人が琵琶湖を歌に詠み込んでおり、湖上の往来が盛んになされていたこともうかがえる。また、奈良時代 から近代にかけて、琵琶湖治水のために瀬田川 の浚渫 ・改修が繰り返し計画・実施されることになる。なお、湖底遺跡は平安時代 末期を存続の終期とするものが多い。
中世の文書や絵図に記された耕地 の一部は、後に琵琶湖や内湖 ( ないこ ) に水没している。後述 する津 の立地の変化の例として、この時期に琵琶湖水位の上昇により内湖 ( ないこ ) が失われた木津 (こづ、新旭町) に代わって、今津 が発展するようになったことが挙げられる。また横江遺跡 (守山市 )などにおいては、鎌倉時代 ごろの堀 で囲まれた集落 が確認されている。これらの堀はその深さや幅から、防衛機能よりも灌漑・排水や舟運としての性格が強かったと推測されており、水野 (2011 , p. 10) は、琵琶湖の水位上昇に対応しての洪水 対策という役割の可能性についても言及している。
織田 ・豊臣政権 においては、安土城 を拠点に湖上を一括管理し、経済・社会的に利用することが試みられた。安土城が築かれた大中湖 一帯は、このころまで政治的中心地であったが、以降琵琶湖との間に砂州が形成されるなどしたため、豊臣・徳川政権と時代が進むにつれ、膳所や彦根にその地位を譲ることとなった。江戸時代 の琵琶湖周辺域には、200あまりの集落があり、後述 するように周囲の集落や田畑にはホリと呼ばれる水路が張り巡らされていた。
近代以降琵琶湖の面積[注 20] は、1890年代の推定688平方キロメートル から、1990年代には669平方キロメートルまで減少している。この要因としては、南郷洗堰 の築造に関連する水位の低下のほか、干拓 ・埋め立て や湖岸整備といった人為的なものが大きいと考えられる。
湖水
前述 のとおり、琵琶湖の貯水量は275億トン であり、平均水位は84.371メートルがB.L.P. として定められている。
水循環
琵琶湖の集水域(流域 )は3843平方キロメートル で、その98パーセント は滋賀県 であり、また滋賀県の90パーセントが琵琶湖の集水域である[注 21] 。2015年を対象とした推定によると、流入河川より39.3億トン ・地下水 より7.4億トン・湖面への直接降水より12.2億トンの計58.9億トンが琵琶湖に流入、湖面での蒸発 により4.0億トン・瀬田川 より48.4億トン・琵琶湖疏水 より4.9億トンが琵琶湖から流出しており、滞留時間 は4.7年である。
琵琶湖の湖水は、その貯水量の約2倍の地下貯留水と繋がっており、湖水の保全と地下水の保全は密接に関わっている。また、琵琶湖周辺では年間平均10億トンの降雪 があり、水温 4度ほどで密度 が大きい雪解け水 は、北湖深部に酸素を供給する役割を果たす。
水理現象
琵琶湖の水流は、流出部がいずれも南にあるため、基本的に北から南に向かうが、下記の環流や静振・密度流などにより、北向きの流れ[注 22] も頻繁に発生する。
環流
琵琶湖の環流 は1925年の神戸海洋気象台 の観測により発見され、1960年代から1995年ごろにかけて精力的な研究が行われた。北湖には北から第1環流(反時計回り )、第2環流(時計回り)、第3環流(反時計回り)の3つの環流があり[注 23] 、常に3つあるとは限らないが、第1環流は水温成層 期(春 - 秋)の長期間存在する準定常流である[注 24] 。流速 は第1環流では8月から9月ごろに最大30 - 40センチメートル毎秒 に達する。環流は南北に移動しており、このことは生態系 や漁業 にも影響を与えていると考えられる。また、環流は水質 の分布にも影響を与えており、沿岸帯 と沖帯に区分されることになる。琵琶湖の環流は地衡流 としての性格が強く、発生機構については2018年現在、風成論と熱成論の2つの説がある。
静振
湖水面に生じる表面静振には、周期 の異なる3 - 7種類[注 25] がある。水温水層の内部境界面に生じる内部静振は、表面静振に比してきわめて大きな振幅 をもち、周期は一例においては63時間である。なお、内部静振が水位に与える影響はほとんどない。
密度流
台風 などの強風時には、内部静振による北湖底層から南湖への密度流 が生起するが、大半は北湖に還流するため、南北湖間の交換流としての影響は少ない。秋から冬にかけては、南湖の湖面冷却[注 26] により、南湖の水が北湖の底層部に潜り込む冬期密度流が発生する。冬期密度流は、発生後数日間持続し、北湖から南湖に還流することはない。
全層循環
琵琶湖では例年1 - 2月に、湖水が鉛直 方向に混合し、水温と溶存酸素量 が表水層から深水層まで一様になる全層循環(全循環)という物理現象が起こる[注 27] 。湖底に棲息する生物に酸素 を供給する働きをもち、「琵琶湖の深呼吸」とも呼ばれる。地球温暖化 にともなう暖冬 により、2006年と2015年の全層循環は3月中旬まで遅れ、2019年と2020年には2年連続[注 28] で確認されなかった。このような全層循環の弱体化により深水層の酸素が減少し、湖底動物の大量斃死につながることが懸念されていて、実際に湖底にすむ固有種であるビワオオウズムシ の個体数が減少した要因に挙げられている。
水質
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(2021年3月 )
透明度 は、2018年の調査によると北湖で5.5メートル 、南湖で2.2メートルであり、気象条件によっては16メートルを超える透明度を観測することもある[注 29] 。
関連する自然現象
北比良峠から琵琶湖を見下ろす
冬の蜃気楼(高島市)
津波
滋賀県によると、西岸湖底断層 系[注 30] 南部では最大でマグニチュード 7.6の地震が発生し、その場合、4.9メートルの津波 が沖島に到達する。また、同断層系北部では最大でマグニチュード7.2の地震が発生し、その場合、長浜市 沿岸に3メートルの津波が到達すると予測される。ただし、「西岸湖底断層系南部は活断層 だが、300年以内に地震が起こる確率はほぼ0%。ほかの4断層はいずれも活断層ではなく、津波を伴う地震が発生する恐れは極めて小さい」としている[132] 。また、1185年7月9日に、実際に津波が発生した可能性がある。塩津港遺跡で発掘調査が行われた際、湖底で神社が発見され、その神社から津波と見られる痕跡が見つかった(柱が全て琵琶湖の岸に傾いていた)。また、『山槐記 』には「琵琶湖の水は北に流れた」、鴨長明 は「山は崩れて川を埋め、海(琵琶湖)は傾いて陸地を浸せり」と書いている[133] [要文献特定詳細情報 ] 。
おろし
比良山地 から琵琶湖に向かって吹く風は比良おろし と呼ばれ、琵琶湖の沈降 と比良山地の隆起 により生じた急峻な地形をその要因の一つとする。また高島市 勝野では、比良おろしにともなう局地風と考えられる勝野おろしが恐れられている。これらのおろしは、後述 するように事故の原因となることも多い。
湖陸風
琵琶湖畔では、陸面に比べ湖面の比熱 が大きいことを要因とした風が発生する。昼間は日照 により陸面の気温 が上昇し気圧 が低くなるため、琵琶湖から陸地に向かって「湖風」が吹く。逆に夜間は陸面のほうが先に冷え気圧が高まるため、陸地から琵琶湖に向かって「陸風」が吹く。
蜃気楼
琵琶湖では、下位蜃気楼 と上位蜃気楼 の2種類の蜃気楼 が発生する。複雑な像を生じる上位蜃気楼は、琵琶湖や富山湾 において春先から初夏にかけて十数回しか発生せず、非常に珍しい現象である。この上位蜃気楼は、湖上に暖気が流入し上冷下暖の空気層が生じることにより発生する。下位蜃気楼は、逆に冷気が流入し上暖下冷の空気層が生じることにより発生し、世界各地で通年昼夜ともに長時間に渡り発生するため、珍しい現象ではない。
生物相
ビワコオオナマズ
外来魚回収ボックス
琵琶湖では、66種の固有種 [注 31] を含む1700種以上の水性動植物が報告されるなど、豊かな生物相 をもつ。オオクチバス やブルーギル をはじめとする外来種 の侵入や1992年の琵琶湖水位操作規則の改訂、内湖 ( ないこ ) の消失、水田 とのネットワークの分断等によって固有の生物相 が大きく攪乱を受け、漁獲高が激減した種も多い。それらへの対抗策も講じられ、外来種駆除や生態系に配慮した水位操作、内湖 ( ないこ ) の再生など様々な取り組みが行われているが、まだ十分な効果をあげられていない[要出典 ] 。オオクチバスもブルーギルもおおむね漸減傾向にあり平成19年と令和3年の生息量を比較するとオオクチバスは444t→178t、ブルーギルは1,689t→223tとなっている[141] 。
哺乳類と鳥類
琵琶湖周辺のアシ原 にはクマネズミ とドブネズミ のクマネズミ属 、カヤネズミ などが生息している。木造船に住むクマネズミ属 は「ふなねずみ」と呼ばれ、その背中の毛は伝統工芸品である蒔絵筆 (まきえふで)に用いられて、とくに根朱筆(ねじふで)と呼ばれた。2010年ごろからヌートリア が湖岸や淀川水系の河川で見られるといい、琵琶湖博物館が調査を行っている。
1980年代以降、日本各地でニホンイノシシ やリュウキュウイノシシ が海や湖を泳いで島に分布を拡大していることが報告されているが、海を渡る例が多く、確認された湖の例は琵琶湖の竹生島と沖島のみだという。沖島では伊崎半島から渡ってきたと思われるニホンイノシシが2009年に初めて目撃され、竹生島には2011年に葛籠尾崎から渡っている様子が目撃された。必ずしも島に留まらず、行き来する様子が確認されている。竹生島に渡っている個体群は、かつて奥島であった奥島山や長命寺山の山塊に生息しているものだが、視認されるのは1991年ごろからで古くからの生息域ではない。東南方向の山地部から来たと考えられている。高橋 (2017 , pp. 26–41)では、調査を行っている時点で沖島の住民にイノシシの知見がなく、効果的な対策を行えておらず農作物に被害が生じていることを報告している。高橋はさらに、いずれの島もカワウ の大きなコロニーがあり、これが発生する生ぐさい臭いがイノシシを誘引している可能性を指摘している。
琵琶湖(内湖 ( ないこ ) を含む)とその湖岸、流入河川の河口に生息する鳥類 は、渡り鳥 なども含めると140種類ほどになる。カモ科 が31種と最も多く、シギ科 ・サギ科 ・カモメ科 がそれに続く。
魚類
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主に: 琵琶湖への外来魚(国内外来種と国外外来種を問わず) (2021年11月 )
ビワマス やアユ などは川を、コイ ・フナ ・ドジョウ などは水田を産卵場所として利用することが多いなど、琵琶湖に生息する魚類 は周辺の水域との間を移動し、環境の違いをうまく利用している。
陸封 型である琵琶湖産アユは、両側回遊 型の海産系アユと同種であるが、10センチメートルほど(海産系アユは30センチメートルほど)にしか成長せず、コアユ とも呼ばれる。
養殖 や放流 に用いられて日本の湖沼や河川にも一般的に生息している体高の高いコイ(飼育型コイ)はユーラシア大陸 から導入された系統で、日本在来 のコイとは異なることが遺伝学 的な研究から明らかにされた。器官の形態 や生息場所など生態学 的な違いがあるが交雑 が起こり、日本の自然水域では交雑個体が高頻度で検出されている。在来型コイが残存している水域は限られており、琵琶湖では北部に個体群 が知られている。環境省のレッドリスト では「絶滅のおそれのある地域個体群(LP)」に指定されている。
琵琶湖に由来する外来魚
複数の琵琶湖に由来する種や遺伝的グループが淀川水系の外に導入されている[注 32] 。
アユ は河川漁業・遊漁にとって重要な魚種として日本各地で種苗放流 が行われていて、琵琶湖では各地に出荷する種苗としてアユが採捕されている[152] 。資源量やその他の特徴[注 33] により琵琶湖産の種苗は重用され、1990年代ごろは重量ベースで90パーセントを占めるなど、日本のアユ種苗を寡占 していた。河川での交雑 の可能性は小さいが、完全には否定されない。
アユ種苗での混獲 による非意図的な導入の影響は大きく、例えば淀川水系固有種と三方五湖 が本来の生息地であるハス が関東地方 から九州地方 に至る範囲で導入され国内外来種となっている[注 34] 。オイカワ は東アジア 一帯に広く分布する種とされているが、地理的に隔てられて遺伝的な分化が起きており、それぞれが固有の遺伝的特徴を持つ。アユ放流にともなって琵琶湖由来のオイカワが導入され、本来の生息域外に分布を広げただけでなく、在来のグループとの交雑を起こしている。高村 (2013 , pp. 85–100) はマイクロサテライト 領域DNA によって鬼怒川 と那珂川 のオイカワで関東グループと琵琶湖グループの交雑が起きていることを示した上で、琵琶湖由来のオイカワが定着していない河川が珍しいほどであるために、交雑や国内外来の問題を解明することが難しいと指摘している。
ゲンゴロウブナ は、品種改良したヘラブナの名前で知られていて、釣りの対象として人為的なものを含む導入が行われて、現在では全国的に分布している。ヘラブナの放流種苗においても、モツゴ やヨシノボリ属 の混入が起こり分布域を拡散させたという。
植物
ネジレモ
沈水植物は維管束植物 が23種、車軸藻類 が13種確認されている。1950年 - 1960年代以降に、ガシャモク とリュウノヒゲモ が絶滅 したと考えられる[注 35] 。固有種であるネジレモ は、茎 を持たず葉 をロゼット 状に湖底から直接伸ばしているため、茎を持ち水面に葉を近づけられるクロモ やコカナダモ に比して水質悪化の影響を受けやすく、2000年ごろまでに個体数・分布 域が大きく減少した。このほかサンネンモ も固有種であり、2012年には野生絶滅種とされたホシツリモ が河口湖 に次いで発見された。外来種としては1960年代・1980年代にコカナダモが1970年代・1990年代にオオカナダモ が大繁殖したほか、オオフサモ ・ハゴロモモ なども侵入している[注 36] 。
北湖における沈水植物の分布面積は2013年時点で8パーセントほどで、透明度 の約2倍の水深 10メートル近くまで生育している。北湖東岸など遠浅の湖底の箇所においては、沿岸から沖合いに向かってササバモ ・オオササエビモ ・ヒロハノエビモ ・ヒロハノセンニンモ ・サンネンモの順に優先種が変化する。南湖においては、1994年から2014年にかけて沈水植物の分布面積が11パーセントから96パーセントにまで拡大した[注 37] 。沈水植物群落 の密生は船舶の航行や漁業の妨げとなり、低酸素水塊の発生による湖底の生物への影響なども懸念されるため、滋賀県などにより除去事業が実施されている。
浮葉植物 については、外来種のチクゴスズメノヒエ の分布拡大により、アサザ [注 38] の発芽 場所が減少し、同種の自生群生地は2015年現在東近江市 の農業用水路のみとなっている。また2004年以降は外来種のナガエツルノゲイトウ がチクゴスズメノヒエ以上に群落を拡大させている。
湖岸や内湖 ( ないこ ) には、葦[注 39] の群落がある。葦は、富栄養化 物質などを根から吸うことにより、水湿を改善する能力をもつ。また水の流れを緩やかにすることにより、同様に水質改善能力をもつ藻類やバクテリアの繁殖を促す役割も果たしている。また、琵琶湖は日本国内に現存する2大葦産地のひとつであり、葦簀 などの加工品が生産されている。葦帯の一部は琵琶湖総合開発事業 において消失したものの、1988年から1992年にかけて人工植栽が行われるなどした結果、2007年ごろには自然群落と同程度にまで復元されたと考えられる。
そのほか湖岸には、内陸の淡水湖沿岸においては唯一ハマゴウ が自生している[注 40] 。1980年代と2000年代の湖岸の植生の変化を比較した金子 & 佐々木 (2016) によると、外来植物や人為的な植生、熱帯生種群や泥質立地種群が拡大する一方で、湖岸の景観を特徴づける植物群落が各湖岸地形において減少・消失している。
プランクトン
動物性プランクトン は約240種が記録されており、北湖表層水には1リットル あたり数個体から数百個体程度のミジンコ が含まれる。ミジンコの中で最も多いのはカブトミジンコ (英語版 ) でアユなど餌となっている[注 41] 。2005年ごろからは捕食者のアユの減少により、外来種で大型のプリカリアミジンコ (英語版 ) が増加しており、ミジンコの濾過 能力が琵琶湖の水質改善に影響を与えたと考えられる[注 42] 。そのほか、ヤマトヒゲナガケンミジンコ (オランダ語版 ) も多く見られ、ストロビリディウム属 [注 43] や小型センモウチュウ といった原生動物は通年、ワムシ はハネウデワムシ (英語版 ) が通年、ネズワムシ (英語版 ) が夏から秋にかけて見られる。
植物性プランクトンは約240種が記録されている、北湖表層水には1リットル あたり数百万細胞が含まれる。1950年代初頭には、秋から冬には珪藻 (ホシガタケイソウ (英語版 ) やメロシラ (英語版 ) )が、夏には緑藻 (ビワクンショウモ など)が現れる比較的安定した季節変化が見られた。しかしその後の富栄養化にともない、1960年代半ばごろよりミカヅキモ (緑藻)・シネドラ (珪藻)・フォルミディウム (英語版 ) (藍藻 )といった特定種の大増殖が発生するようになり、1977年以降黄金色藻 のウログレナ (ドイツ語版 ) による赤潮 (5-6月ごろ)が、1983年以降藍藻(アナベナ やミクロキスティス (英語版 ) )によるアオコ現象 (夏 - 秋)が発生している。
人間との関わり
呼称
古代の呼称
琵琶湖は元々、近淡海[注 44] ・淡海・淡海の海(あふみのうみ) ・水海(すいかい) ・近江の海・細波(さざなみ) ・鳰の海(にほのうみ) などと呼ばれていた。
『古事記 』においては、その伊邪那岐 の大神は、淡海 の多賀 に坐すなり (上巻)や東の方追ひ廻りて近淡海国 に到り (中巻)といった用字で現在の滋賀県のことを表している[注 45] 。同書における琵琶湖を指す記述としては中巻の
いざ吾君 ( あぎ )
振熊 が痛手追はずは
鳰鳥 の
阿布美能宇美 ( あふみのうみ ) 迩 ( に )
潜 ( かず ) きせなわ[注 46]
という歌謡のみが挙げられる。一方『日本書紀 』には
淡海の海
瀬田 の済に
潜 ( かず ) く鳥
目にし見えねば 憤りしも
という歌謡をはじめとし、淡海の海 ・淡海 の表記が多数見られ、近淡海 の用字はほとんど見られない。同書における近江の表記は、天智天皇 5年[注 47] に是の冬に宮都の鼠、近江 に向きて移る とあるなど、奈良時代 の近江遷都 以降に顕著に現れる。その後の『続日本紀 』の717年(養老 元年)の条には行至近江国 観望淡海 とあり、近江 を国名、淡海 を琵琶湖と使い分けていたことが示唆される。
また同時期の藤原武智麻呂 の伝記には、近江 は宇宙の名地[……] 水海 清くして広し との記述があり、これが琵琶湖を水海 と表記したものの初出である。さざなみ の用字については、713年(和銅 6年)の『近江風土記 』逸文 を引いた
近江の国 の風土記引きて言わく、淡海の国 は淡海 を以ちて国の号と為す。故に一名を細波国 と言ふ。目の前に湖上の漣 ( さざ ) なみ を向ひ観るが所以なり。
との文がある。鳰の海 については、下って平安時代 の『源氏物語 』は「早蕨 」の巻の
しなてるや
鳰の海 に
漕ぐ舟の
夏帆ならぬとも 逢い見し物を
や『千載和歌集 』の
我がそでの
涙や鳰の海 ならん
かりにも人を みるめなければ
また『新古今和歌集 』の
鳰の海 や
月の光の うつろへば
波の花にも 秋はみえけり
などがある。琵琶湖を代表する鳥である鳰(カイツブリ )は、上述のように『古事記』にも表れており、後の1965年(昭和 40年)には滋賀県の県の鳥 にも指定されている[195] 。
中近世の呼称
弁財天
琵琶湖という呼称の最も古い用例は、木村 (2001 , pp. 157f.) によると、室町時代 の明応 年間(1492年 - 1501年)に活躍した僧侶景徐周麟 の漢詩 集『翰林葫盧集』の中の七言絶句 「湖上八景」における
である。なお、琵琶湖を琵琶 の形に喩えた例はこれよりも古く、比叡山延暦寺 の僧侶光宗 が1311年から1347年(応長 元年から貞和 3年)にかけて編述した『渓嵐拾葉集』に
尋云。湖海是
弁財天 ノ
三摩耶形 ナル方如何。答。凡
水海 ノ形ハ
琵琶 ノ相貌也。
との記述がある。周麟が琵琶湖の呼称を用いている漢詩はもう1つあるが、それに次いで古い琵琶湖の用例は江戸時代 の儒学者伊藤仁斎 による1645年(正保 2年)の漢詩「過琵琶湖作」まで待たなければならない。その後、同じく儒学者の貝原益軒 が1689年(元禄2年)に若狭 ・近江を旅した際に記した日記『諸州めぐり 西北紀行』には次のような記述がある。
およそ
淡海の海 は、
[以下琵琶湖の地形についての記述] 。此湖の形はよく琵琶に似たり。
堅田 より北七
里 、東西広し。琵琶の腹に似たり。堅田より
勢田 まで四里は、東西狭し、一里の内外あり。たとえば琵琶に鹿首あるが如くせばし。勢田より
宇治 まで弥せばし。琵琶の海老尾に比し、
竹生島 を覆手に比すといへり。故に此湖を
琵琶湖 と云。
『大日本沿海輿地全図 』(レプリカ)より。
この記述は、上述の『渓嵐拾葉集』に沿ったものである。また、同年に松本村の原田蔵六が記した地誌『淡海録』第1巻には、
湖水を琵琶湖 と名ずく[ママ] ハ、竹生島の天女音楽を好み給ふ故、海を琵琶湖 と名づく、因みて神を妙音天女と名く
とある。元禄年間から享保 年間にかけてはほかにも、松尾芭蕉 による俳諧文 や朝鮮通信使の申維翰による『海游録 』など、各種資料において琵琶湖の表記が見られる。さらに、江戸時代後期には伊能忠敬 が1807年(文化4年)に「琵琶湖図」を作成するなど、地図上にも琵琶湖の表記が現れるようになる。なお、琵琶湖の語源については、上述の(弁財天の)琵琶とするもののほか、アイヌ語 の「貝を採るところ」を意味する語に由来し、ビワ(ビハ)は水辺や湿原がある場所を指すという吉田金彦 の説や、楕円形を表すビワ、枇杷の実の形に由来とする説もある。
近現代の呼称
明治 年間には、琵琶湖汽船 や琵琶湖新聞 ・琵琶湖踊・琵琶湖治水会・琵琶湖疏水 など琵琶湖の名を冠する名称が多く現れており、琵琶湖という名称が定着したことが窺える。なお、琵琶湖という漢字は難しいことから[注 49] 、ひらがな 書きにしたびわ湖 やびわこ などの表記も見られる[注 50] 。その他、別称や愛称としては以下のようなものがある。
Mother Lake
滋賀県は、2000年にマザーレイク21計画を策定するなど、琵琶湖をMother Lake (母なる湖)と呼んでおり、母なる湖・琵琶湖。預かっているのは、滋賀県です の文言 を県の封筒に記載している。
近畿の水瓶
琵琶湖は上述 のように滋賀・京都・大阪に水を供給していることから「近畿の水瓶 」などと呼ばれることもある[211] 。しかし滋賀県側は、1995年は稲葉稔 知事が「水瓶」との表現に抗議する答弁をおこなうなど、琵琶湖を「水瓶」と呼ぶ表現を避けている。これは、滋賀県民にとって自県の象徴的存在である琵琶湖を、いわば単なる貯水用ダム の一種として扱われては県民感情を大きく損なうとの理由によるものである。
交通
2021年現在、琵琶湖汽船 ・オーミマリン ・沖島 離島振興推進協議会が定期航路を運営している。
先史・古代の交通
古代の丸木舟のレプリカ(安土城考古博物館 )
琵琶湖周辺では、縄文 後期の丸木舟 (鰹節型と割竹型の2形態、全長は最大のもので7.9メートル )が発見されており[注 51] 、先史時代 から湖上交通 がおこなわれていたことがわかる。弥生 中期後半には丸木舟は準構造船に発展し[注 52] 、古代 には湖北と都を結ぶ航路 が築かれていた[注 53] 。『万葉集 』にも琵琶湖の船は多く詠まれているが、帆 を読んだものはほとんどなく、当時帆走 は未発達であったと推測される。東大寺 ・藤原宮 ・石山寺 の造営においては、甲賀 ・高島 ・田上 からの木材が湖上交通を利用して運搬されている。
その後、平安時代 に都が長岡京 から平安京 に遷都されると、北国 ・東国 と都とを結ぶ琵琶湖という交通路は、大きく発展していくことになる。『延喜式 』巻二六主税には北陸 六箇国の税は塩津 や勝野(高島市大溝 ) から湖上路を大津 に運ぶとの規定があり、東海 よりの物資も中山道 を経て朝妻(米原市 ) から同様に大津に運ばれた。
江戸初期に朝妻が米原湊に取って代わられた後、朝妻船は懐古的に描かれた[注 54] 。
湖上交通は、大量の物資や人を運ぶには便利であったが、前述 の風や波による遭難のリスクもあった。高市連黒人 による
わが船は 比良の湊に 漕ぎ泊 ( は ) てむ 沖へな離 ( さか ) りさ 夜更けにけり
という歌からは、舟旅への恐れが窺える。平安時代ないし室町時代 には、
という歌が詠まれ、また「急がば廻れ」という諺 も広まった[注 55] 。
中世の交通
平安時代から三津浜と呼ばれた比叡山 の外港坂本 は、中世 には大津を凌駕するかたちで栄えるようになり、京都への物資運搬を担う馬借 ・車借が室町時代以降大きな力を持っていく[注 56] ことにも繋がった。湖上交通の中心は平安時代から引き続き南北ルートであったが、中世以降は琵琶湖の最狭部である堅田 [注 57] などを拠点とする東西ルートも発展していく。また前述 のように、港(津)の発展には内湖 ( ないこ ) が関わっており、内湖 ( ないこ ) を含む湖岸環境の変化により、津の立地も変化している。
中世には荘園 領主により港が管理されるようになり、年貢 などの貢献物の輸送も湖上輸送も増え、琵琶湖は経済的に利用されるようになる。堅田は中世をとおして湖上交通において中心的な役割を果たし、船の検問などを行い湖上の安全を保証する見返りに金品を求めることのできる上乗権(うわのりけん) と呼ばれる特権を室町時代に与えられた。湖上には坂本を中心に複数の関 [注 58] も設けられ、関銭は山寺の造営などに用いられた。
建武 3年(1336年)には足利尊氏 を追った義良親王 ・北畠顕家 が大軍を率いて琵琶湖を東から西に渡るなど、湖上は軍事的にも利用されるようになっていく。戦国時代 に入ると、従来の比叡山延暦寺 に加え戦国大名 の浅井氏 が菅浦 ・大浦・沖島 、六角氏 が堅田の船を支配下に置くなど、各浦の船の掌握を図るようになった。
近世の交通
丸子舟
近世 には、物資輸送・地場産業 が振興され、発展した港の間で輸送を巡っての紛争もたびたび起こっていた。またこのころには、日本海 などの弁財船 よりも幅が狭い丸子船 (丸船・丸木船・丸太船とも)と呼ばれる琵琶湖特有の木造和船 が使われるようになった。後述 するように湖岸の田畑や集落には、ホリと呼ばれる水路が張り巡らされており、たとえば草津市 志那町 では、閘門 を通じて田舟を琵琶湖に下ろし、浜大津 まで往復することもあったと伝えられている。
織田信長 [注 59] は港を重視し、天正 元年(1573年)に船長約54メートルの船で坂本 から京都 に入るなど、琵琶湖を軍事的に大きく活用した[注 60] 。豊臣政権 下では、京都から大阪 へと物資の流れが変わり、それに伴い湖上交通の拠点も堅田や坂本から大津 に移ることになる。豊臣秀吉 により創設された大津百艘船 は、大津からの積荷を独占的に扱えるなどとする特権を浅野長吉 が天正 15年(1587年)に下した高札により与えられた。また天正17年ごろには、観音寺 が船奉行 を務めることとなった。秀吉は、湊への着岸順に荷物を積み出すことができるとする艫折廻船(ともおりかいせん) という制度により、堅田の湖上特権を否定した平等な流通システムの創設もおこなった。豊臣政権下で築かれたこれらの体制は徳川政権 下でも踏襲されることとなる。
歌川広重 の『近江八景 』より「矢橋帰帆」(1834年ごろ)。
西廻海運 の成立以降は、若狭国 の小浜 ・敦賀 から琵琶湖を経由する流通路は衰退し、湖上水運は周辺域の流通路へと変容していった。このため、堅田・大津・近江八幡 の三ヵ浦は小さな湊にまで出向き争論を繰り広げるようになり、その後堅田・大津・大溝・舩木・今津・海津 ・大浦 ・塩津・八幡の九ヵ浦体制が成立した。大津を拠点とする観音寺 が貞享 2年(1685年)に船奉行職を罷免され、以降京都や四日市 を拠点とする幕府 の官僚的代官 が船奉行を務めることとなったことには、幕府にとって琵琶湖水運の地位が低下したことが表れている。もっとも船数は大幅には減少せず、江戸時代中期の享保 年間には5740艘もの船が琵琶湖を行き来していたとされる。また、流通路としての地位の回復や後述 の水害への対策、新田開発 などを目的として、琵琶湖 - 敦賀間に運河を通す計画 が、江戸時代を通じ複数回持ち上がっている。
江戸時代には幕府のほか、彦根藩 も独自の船支配をおこなっていた。彦根では古代以来、朝妻が東西航路の起点であったが、元和 年間に松原 ・米原・長浜 の彦根三湊が水運の中核として取って代わった。享保年間には争論の結果、彦根三湊が大津百艘船の特権を切り崩すこととなった。
近現代の交通
矢橋浦(1910年ごろ) 近代に入り明治 2年(1869年)に蒸気船 一番丸 (5トン 12馬力 の木造外輪船 )が就航すると、ふたたび湖上交通が大量輸送を担うこととなる。既存の和船 問屋や漁業者は蒸気船への妨害を行ったが、明治4年(1871年)には大津百艘船などの旧来の制度は解体された。1874年(明治7年)までに15隻の蒸気船が就航しており、汽船間の競争の激化により事故が続発するようになったため(後述 )、1875年(明治8年)7月、滋賀県により汽船取締規則の通達が出されている。さらに翌1876年3月より大津湊町に汽船取締会所および同支所7箇所が設立され、安全航行のための会所規則が定められた。1880年(明治13年)7月には大阪 - 京都 間の鉄道開通にともない長浜 - 大津 間の鉄道連絡船 の営業をめぐる争いが生じ、1882年(明治15年)には滋賀県の介入のもと3社合併により18隻を所有する太湖汽船会社 が設立されている。翌1883年には日本初となる湖上鋼鉄船第一太湖丸(516トン)および第二太湖丸(498トン)も定期航路に就航し、1884年には長浜 - 敦賀 間および長浜 - 大垣 間の鉄道全線開通に併せてこちらも日本初となる鉄道連絡船が営業を開始した。1886年(明治19年)には紺屋関汽船・山田汽船が合併し湖南汽船会社 が設立され、湖上交通は太湖汽船と堅田以南を営業区域とする湖南汽船の2大会社に統一されていくこととなる。
当初日本政府や太湖汽船によって30年程度と見積もられていた鉄道連絡船の役目は、予想外に早い1889年(明治22年)に東海道線 が全線開通したことにより、わずか7年で終りを迎えることとなった。そのため後述 するように、2大汽船会社は、貨客輸送から遊覧船 へと営業の主力を切り替えていくことになる。さらに1931年(大正 15年)には江若鉄道 が今津 まで開通し、以降は輸送に占める湖上交通の割合は低下したが、小地域間の湖上交通は1960年代まで続いた。なお、丸子船のような木造船は生業・生活に密接に関わるものとして大正ごろまで使われており、1880年(明治 13年)の『滋賀県物産誌』に基づくと、輸送船・漁船 ・田船など少なくとも1万1100艘[注 61] の船が存在していた。
近現代にも、琵琶湖を経由して日本海と太平洋 や瀬戸内海 を繋ぐ運河計画は、琵琶湖疏水の築造に携わった田辺朔郎 による昭和 初期の「大琵琶湖運河計画 」や、高度経済成長期 の「日本横断運河構想 」など複数回立てられている。しかしモータリゼーション が進んだ結果、1964年(昭和39年)に琵琶湖大橋 が、1974年(昭和49年)に近江大橋 が架橋されたことが象徴するように、琵琶湖は水運の手段ではなく陸運の障碍物へと転じていった。
水害と治水
瀬田川洗堰
琵琶湖の湖岸域では、河川の氾濫 のほか、「水込み」と呼ばれる琵琶湖の水位上昇による水害 に悩まされてきた。古文書における琵琶湖周辺の水害の記録は、701年(大宝 元年)以降多く残されている。
琵琶湖の水害を防ぐための瀬田川改修の歴史は、奈良時代 の僧侶行基 による瀬田川の流れを阻害する小山(のちの大日山)の掘削 の試みにまで遡ることができる。その後江戸時代には、幕府の普請 が2回と自普請が3回、計5回の浚渫 工事がおこなわれており、特に1699年(元禄 12年)の「河村瑞賢 の大普請」と、高島郡 深溝村の庄屋 藤原太郎兵衛家の尽力の末に実現した1831年(天保 2年)の普請が大規模なものであった。またこの間、流量増加による洪水を危惧する下流住民の反対などによりなかなか浚渫が実現しなかった時期には、あさり 取りなどと称した地元住民による小規模な浚渫などもおこなわれている。
近代に入ってからは1890年(明治 23年)以降、滋賀県内の有志が結成した琵琶湖水利委員同盟会や滋賀県知事大越亨 により、繰り返し淀川の浚渫の陳情がなされた。1885年(明治18年)の淀川洪水 で大きな被害を受けた下流域の反対にも遭ったが、1893年(明治26年)からは小規模な浚渫が実現した。さらに1900年から1908年(明治33年から41年)にかけては、大規模な浚渫と上述の大日山の掘削がおこなわれ、また南郷洗堰 が築造されたため琵琶湖の水位の調整が可能となった。これらの工事以前には、プラス3.76メートルにまで水位が上昇し琵琶湖周辺のほとんどの地域が237日にわたって浸水した1896年(明治29年)の洪水 をはじめとし、ほぼ隔年で長期間の浸水が発生していたが、以降の浸水被害は4年に1度程度にまで減じた。その後1961年(昭和36年)には南郷洗堰の隣接地に瀬田川洗堰 が築造されている。
水利用
滋賀での水利用
琵琶湖への流入河川の一つである安曇川 水系 の伏流水 を利用した「川端文化」で知られる針江区 。
前述 のとおり、琵琶湖湖岸域では弥生時代 ごろから稲作 がおこなわれていた。田畑よりも低い位置にある琵琶湖の水は使いにくかったため、昭和 中ごろまで琵琶湖の水を農業や生活に利用することは少なく、もっぱら琵琶湖への流入河川や井戸 の水を利用してきた。これらの河川の水量は琵琶湖に比べると少なく、また扇状地 であるため伏流水 化しやすい地形が多く、甲良町 など農業用水 の確保に問題を抱える地域も多かった。
琵琶湖に隣接する湿地帯 においては、傾斜が緩いため通常の灌漑 が困難であったが、琵琶湖や内湖 ( ないこ ) の水を利用した水田 の開発が歴史的に試みられてきた。形成期においては、泥田(超湿田 )が広く見られたと推測され、次いで跳ね釣瓶 や縄をつけた桶 による直接取水もおこなわれるようになったと推測されている。その後遅くとも近世中期(中世にまで遡れる可能性もある)までには、ホリと呼ばれる水路 [注 62] や「蛇車(じゃぐるま) 」と呼ばれる足踏み式の水車 などの揚水機を用いた逆水灌漑がおこなわれるようになる。また、琵琶湖と内湖 ( ないこ ) ないしホリとの境界部に堰 や閘門 を設けて水位を上昇させる方法も用いられており、これは明治時代 に南郷洗堰 が築造され琵琶湖の水位が低下したことに伴い採用された例が多いと推定される。1904年(明治37年)以降はポンプ により琵琶湖から内湖 ( ないこ ) に揚水する方法も用いられるようになっていった。なお、大正 年間の調査に基づくと、逆水灌漑の分布は湖南・湖東に多く、平地の傾斜が大きい湖北・湖西では少なかった。
昭和 30年代ごろには上水道 の普及が始まり、以降湖水の利用量は増えていくことになる。滋賀県では1980年ごろから2000年ごろにかけて、人口の増加などの要因により湖水の利用が大幅に増え、2019年時点における上水道の主要な水源は琵琶湖の水となっている。また、農業水利においては1970年代以降、大型ポンプを備えた施設で湖から水を汲み上げ、パイプライン で農地に配水する逆水灌漑による湖水の利用が増加した。牧野厚史 (2001 , pp. 205–206) は、このような水利用は利用者から見えにくく、生活と水循環 の関係に思いを馳せることが難しくなっていると指摘し、八幡堀 の保存活動などは、単なる資源としての水利用に留まらない水問題への地域固有の解決策の方向を示しているのではないかと述べている。
淀川下流域での水利用
琵琶湖から京都へ水を供給する琵琶湖疏水。
京都で琵琶湖の湖水を生活用水の源とするようになったのは、琵琶湖第二疏水を完成させた1912年 (明治 45年)のことである。第一疏水は第二疏水より古く1890年(明治23年)に完成している。琵琶湖疏水 の建設は東京奠都 によって衰退の危機にあった京都を再興することを目的とし、まずは疏水の水車動力によって工業を近代化し、さらに水運を確保する計画で京都府知事 の北垣国道 が先導した。当時、京都では鴨川 に源流を持つ京都盆地の水系を賀茂別雷神社 (上賀茂神社)が支配し、御所 の水源も「御所御用水流通水掛リ之儀者賀茂別雷神社 旧一社ニテ支配被致候」とされていた。構造的に夏の渇水期になると上流小山郷の田畑の灌漑が優先されることになり、御所の水は枯渇する様であった。疏水によってに御所用水路の新たな付け替えもあり、御所の庭園と防火用桝への安定供給が図られるようになった。琵琶湖疏水を介して毎秒24立方メートル (2017年時点)を取水し、水源の99パーセント(2019年ごろ)を琵琶湖に頼る京都市 は、1914年(大正 3年)以来京都市民の感謝の気持ちとして滋賀県に毎年感謝金(琵琶湖疏水感謝金)を支払っている[注 63] 。財源は京都市民の水道料金で、滋賀県は感謝金を水源保全に充てている。
琵琶湖唯一の流出(自然)河川である瀬田川。
大阪では1895年 (明治28年)に淀川 を水源とする本格給水が始まった。第二次世界大戦後 の高度経済成長期 に際しては、著しい産業発展により淀川での安定した取水が必要になった。琵琶湖下流域における水資源の需要の急速な拡大に対応するために、1972年(昭和47年)に琵琶湖総合開発特別措置法が制定。琵琶湖総合開発事業 を策定した。事業の策定にあたって上流への影響は避けられないことから、不利益を減らすために原案は滋賀県知事が作成し内閣総理大臣 がこれを決定する形がとられた。同事業によって水位低下補償事業が完了し、水位の管理について国(瀬田川洗堰管理者)と滋賀県、下流府県が初めて合意した。規則では、洪水 時はあらかじめ水位をマイナス20センチメートルあるいはマイナス30センチメートルに下げて対処、非洪水時は30センチメートルを上限になるべく水位を高く保ち渇水 に備えることを基本とし、下流域の渇水時には琵琶湖水位マイナス1.5メートルまで湖水を利用できることになっている。また、増大する水の需要に1991年 (平成3年)度までは不安定な「暫定豊水水利権」(河川の流量が一定の流量を超える場合に限って取水できる水利権 )で対応してきたが、同年度末には水資源開発事業が概成し都市用水として最大毎秒40立方メートルの新規水利権が与えられた。下流域の水利権を拡大せざるを得なかった背景には、京阪地域が渇水時であっても比較的豊富な水量を保つ水源として淀川、さらにその水源である琵琶湖への依存を強めたことがある[注 64] 。琵琶湖総合開発事業では、琵琶湖を文化面を含み多方面で活用し親しんでいる滋賀県民の生活に直接的な影響が及ぶことは避けられず、上流と下流の利権をいかに調整するかが事業の肝となった。上流の不利益を解消するために、下流の利水公共団体は琵琶湖とその周辺の上流域の福祉増進に利するために下流負担金602億円を負担することになった。
琵琶湖の水利用を巡っては、下流の京都・大阪への対抗心を表すために「琵琶湖の水止めたろか 」というジョークがしばしば用いられる。野田 (2001 , p. 232) は滋賀県・京都府・大阪府の住民を対象にした1995年のアンケート調査を参照し、滋賀県以外の住民は渇水時などには水源として琵琶湖を意識するが、普段はその存在を別段気に留めていないのだと結論づけている。
天然ガスの利用
琵琶湖の湖岸一帯では天然ガス が湧出している場所があり、古くは湖北(現在の高島市)において農家が燃料として使用する例も見られた。湖南では1883年 夏、栗太郡 常盤村(現在の草津市)において住民が井戸 を掘った際に、地下水 に溶け込んでいる天然ガスの存在に気が付かず、水にカンテラ を近づけて火柱を作った逸話も残る[311] 。燃料事情が逼迫した1941年 には、大津市が大阪鉱山監督局に栗太郡瀬田町(現在の大津市)で石油(メタンガス )の試掘申請を行っている[312] 。
漁撈と食文化
高島市の湖岸
前述 のとおり、琵琶湖には多様な魚介類 が生息しており、漁場の環境も岩場・砂浜 ・内湖 ( ないこ ) ・沖合と多様であり、また淡水であるため魚 が湖と河川 を行き来することも要因とし、漁法 もまた多様かつ独特のものとなっている。その中でも特に「待ち(型)の漁法」の発達と新規漁具 の制限が特徴として挙げられる。これは、積極的・新進的な漁法を用いることによる資源 の枯渇を避けるための、閉鎖水域 である琵琶湖ならではの知恵である。
鮮魚店で売られる琵琶湖の水産物(大津市 内)。
固有種を含む琵琶湖の魚介類は、伝統的な食材として、2013年現在においても盛んに食されている。淡水魚の生食 を忌避する日本においては珍しく、ビワマス ・イワトコナマズ ・ニゴロブナ やゲンゴロウブナ ・ハス などは造り としても食される。このほか「ジュンジュン」と呼ばれるすき焼き ・寄せ鍋 や焼き物 、佃煮 などとしても食される。また、小アユを利用して、アユの飴煮(あめだき) が大津の名物、土産物として作られてきた[319] 。さらに、滋賀県では発酵食品 が発展しており、鮒寿司 をはじめとするなれずし も作られる。滋賀県には、海産物を扱う鮮魚店 とはべつに淡水魚専門の鮮魚店があり、これらの店では鮮魚のほか、佃煮・なれずしといった加工品や鴨 なども扱われている。
漁撈の歴史
魞 ( エリ )
琵琶湖における魚介類の利用は、1万年以上前にまで遡ることができる。前述 したように、縄文時代 の遺跡からは、貝殻 や魚の骨などが発見されており、タンパク源 に占める琵琶湖産の魚介類(特にコイ科 )の比率は哺乳類 よりも高かったと考えられている。また、漁網 用と推測される石錘 ・土錘 も出土しており、漁具とともに出土した丸木舟 も漁労に用いられたと推定される。稲作が開始 された弥生時代 には、魚類が水田を産卵 場所として利用するようになったこともあり、漁網に代わり魞 (エリ) や筌 といった小型陥穽漁具 による待ちの漁法が発達し[注 65] 、タンパク 源に占める魚介類の比率はさらに高まった。古墳時代 には土錘が増加・多様化し、また麻 網も普及するようになり、漁獲対象種も多様化したと考えられる。
その後中世 ごろには網漁が発達しており、従来河川や内湖 ( ないこ ) で用いられていた小型の魞が琵琶湖沖合いで用いられる大型で複雑な魞へと発展したのも、中世の13世紀 ごろであると考えられる。2017年現在用いられている漁法の内、アユ沖掬い網漁(1960年代に導入)を除く漁法の原初形態は、中世にはすでに存在していたと考えられる。流通に制約の大きかった中世においては、京都の鮮魚需要に対する琵琶湖の役割も大きかった。このころまでに漁撈 をおもに営む集団の組織化が進んでおり、13世紀ごろには漁撈を巡る複数の紛争が起きていたとの記録がある。一方13世紀は、仏教 思想が庶民の間にも広まり殺生 を禁断とする意識が高まった時代でもあり、その葛藤を伝える説話なども残されている。
近世 の17世紀 ごろには、淡水魚 である鯉 から海水魚 である鯛 に政権の中心部における需要は移っていったが、18世紀 から19世紀 にかけても、漁撈を巡る紛争は頻繁に起きており、琵琶湖周辺の集落における漁撈はむしろ活発化したと考えられる[注 66] 。明治 以降には、網地素材の化学繊維への変化や動力船の導入により、漁獲能力が向上したほか、大正 ・昭和 期には、テナガエビ とワカサギ が移入され、漁獲対象種に加わった。また、大正末ごろには内湖 ( ないこ ) の平湖 と柳平湖 (草津市 )を発祥の地とする淡水真珠 の養殖が開始されたが、第二次世界大戦後 は内湖 ( ないこ ) と琵琶湖が切り離されたことなどによる水質悪化により衰退した。漁獲量は1957年には1万300トン に達したが、その後減少し続け、2012年にはピーク時の10分の1の1029トンにまで減じ、魚種の構成もアユが40パーセント を占めるようになるなど大きく変化している。また、1956年には29種の漁具が用いられていたが、2015年には8種にまで減少している。前述 の外来種(特にブルーギル )の侵入は魞漁の主漁場である推移帯 (英語版 ) の生態系の撹乱を引き起こし、漁業者の生活を脅かしている。
景勝・観光地として
外輪船ミシガン
飛鳥時代 の近江遷都 以降、後述 のように近江 を舞台とした歌 が数多く詠まれており、多くの歌人たちが近江を訪れ、琵琶湖と周囲の光景に感性を刺激されたことが推測できる。近江八景 [注 67] は、当初は文学的モチーフ であったが、江戸時代中ごろには街道 を通行する人が増えたこともあり、『名所記』『名所図会 』といった挿絵入りの旅行案内書や浮世絵 などをつうじて、全国の民衆に膾炙するようになった。
今村紫紅『近江八景』より「三井(晩鐘)」
1889年(明治 22年)の東海道線 全線開通は、前述の鉄道連絡船の廃止に繋がり汽船 会社の経営に打撃を与えたが、同時に京阪神 から琵琶湖観光に気軽に訪れることを可能にもした。湖南汽船は1894年(明治27年)に大津 と石山 および坂本 間の航路で湖上観光の営業を開始している。次いで太湖汽船も南湖 - 北湖間の航路運行を開始し、1895年(明治28年)には鉄道連絡船廃止時点のレベルまで業績を回復させるに至っている。本格的な湖上遊覧 の嚆矢ともされる湖南汽船の「近江八景めぐり遊覧船」(1903年〈明治 36年〉就航)に続き、太湖汽船も遊覧観光船の建造を行うなどより湖上遊覧に力を入れることとなり、以降季節ごとの観光 客誘致が展開された。1912年(大正 元年)には京津電車 の三条 - 札ノ辻 間が開通し、京都方面からの観光客はさらに増加、2大汽船会社の競争もより激しく展開された。この時期には竹生島 や長命寺 への巡礼を含む観光が定着している。昭和 に入ると琵琶湖ホテル の建設や湖水浴場の整備も進められ、太湖汽船と京阪電鉄 によるマキノ・スキー場 開設の翌年にあたる1930年(昭和5年)から1962年(昭和37年)にかけては、スキー客運ぶスキー船も運行された。
第二次世界大戦 後の1950年(昭和25年)には琵琶湖が国定公園 に指定されている。これに先駆け前年には、滋賀県民からの公募によって「琵琶湖八景 」が選ばれ、翌1951年には観光船玻璃丸 が就航した。1968年(昭和43年)のびわこ大博覧会 以降は、琵琶湖の水質が悪化するなど、観光が軽視されるようになるが、びわこ国体 で湖上輸送が試みられたのを機に、再度観光が顧みられるようになる。1982年(昭和57年)には玻璃丸を継ぐかたちで外輪船 ミシガン が就航し、滞在型観光を目的としたリゾート・ネックレス構想や水上スポーツ施設の整備なども計画されたが、バブル経済の崩壊 により計画は進まなかった。その後は、環境保全や歴史的文化資産の活用などの観点も取り入れた新しい観光スタイル が模索されている。2019年(令和 元年)には琵琶湖岸を1周する200キロメートルの自転車ルートであるビワイチ が、ナショナルサイクルルート の第1弾[注 68] として指定された。
作品の題材として
和歌
柿本人麿
平忠度
紫式部
前述 のとおり、記紀 にはいくつか琵琶湖を題材とした歌謡 が含まれている。その後の『万葉集 』にも琵琶湖を題材とした歌は複数含まれており、近江国 を舞台とする歌は近江遷都 以降のものが多い。同歌集には柿本人麿 の
淡海の海 夕浪千鳥汝が鳴けば 情 ( こころ ) もしのにいにしへ思ほゆ [注 69]
など、「淡海の海」「近江の海」が含まれた歌 が14首ある[注 70] 。また、湖や志賀にかかる枕詞 「さざなみ」「楽浪」を含む歌は10首あり、おなじく柿本人麿による
さざなみの 志賀の大曲 ( おおわだ ) 淀むとも 昔の人に また逢わめやも [注 71]
さざなみの 志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ
という歌が特に著名である。湖岸の湊を詠んだ歌も多く、小弁 [注 72] による
などが挙げられる[358] 。飛鳥時代 の湖上の賑わいを示す歌としては、
近江の海は 港は八十 ( やそ ) [注 73] ち いづくにか 君が舟泊 ( は ) て 草結びけむ
などが挙げられる。一方、都落ち間近に平忠度 が詠んだ
さざなみや 志賀の都はあれにしを 昔ながら[注 74] の 山ざくらかな
は、上述のさざなみの枕詞を用いた歌のなかでもっとも有名なものであるが、浅見によるとそこには渺々とした琵琶湖の風景 が表れている。平安時代 の人の往来を示す歌としては、長徳 2年(996年)に父藤原為時 の越前武生 への赴任に同行した紫式部 が高島町 三尾崎で詠んだ
三尾の海に 網引く民の 手間もなく 立ち居につけて 都こひしも [注 75]
が挙げられる。
その他文学
松尾芭蕉
菅原孝標女 による『更級日記 』や鎌倉時代 の阿仏尼 による『十六夜日記 』にも琵琶湖周辺の光景が記述されており、中世文学においては竹生島 信仰が、『平家物語 』や謡曲 『竹生島』などの作品で取り上げられている。戦乱の世になると、謡曲『自然居士 』や室町時代の小唄を集めた『閑吟集 』において琵琶湖の人買舟 や密漁 といった荒々しい様相 が描写されるようになるが、一方軍記物においては『義経記 』などに琵琶湖は登場しているものの、湖上の戦の様子を描いた作品はほとんどない。江戸時代 については、松尾芭蕉 による
四方より花吹き入れて鳰の海
などの琵琶湖畔で詠んだ90あまりの俳句 と『幻住庵記 』、そして上田秋成 による夢物語「夢応の鯉魚」(『雨月物語 』)が傑作として挙げられる。
近松秋江
近現代に琵琶湖に関連する小説 としては、次のようなものがある(丸括弧内はおもな関連する土地)。
室町時代を描いた谷崎潤一郎 『盲目物語 』は、湖上の描写は少ないものの、作品世界は竹生島の沈鬱な影を色濃く帯びており 、秦恒平 『みごもりの湖 』では藤原仲麻呂の乱 の、成澤邦正 『琵琶湖の浮城 』では室町末期水茎の岡 の湖上の戦が描かれている。琵琶湖の汚染 や自然破壊 を扱った作品としては、早くは1919年(大正 8年)の近松秋江 『湖光島影 』があり、第二次世界大戦後 の高度経済成長期 には西口克己 『びわ湖 』が発表されている。また、中上健次 『日輪の翼 』や平成 の小林恭二 『カブキの日 』にも琵琶湖(前者は瀬田の唐橋、後者は堅田 )を舞台とした描写があるが琵琶湖そのものにはわずかしか触れられておらず、松村 (2001 , p. 268) は自然破壊などにより琵琶湖の生命力が衰えたためだと述べている。
美術
「関屋」『源氏物語絵巻』
『堅田図旧襖絵』(部分)
琵琶湖が描かれた現存最古の絵画 は、おそらく『源氏物語絵巻 』の「関屋 」の段である。高梨 (2001 , pp. 269f.) は、これ以前の『一遍聖絵 』や鶏足寺 の十二神将 像についても、琵琶湖の水運ネットワークの影響があると指摘している。室町時代 後半からは『近江名所図』の大作が残されており、室町時代の狩野派 による屏風絵 [注 76] 、同じく室町時代の大徳寺瑞峯院 の『堅田図旧襖絵』[注 77] 、17世紀 前半(江戸時代 )の屏風絵[注 78] などが挙げられる。17世紀後半以降には、近江八景 を題材とした絵画(歌川広重 によるものが有名)や着物 の蒔絵 ・陶磁器 の絵付けなどが現れるが、同時期には古典文学に材をとったものなど、近江八景以外の絵画も描かれている。近代 以降は、多くの洋画家 ・日本画家 が琵琶湖の多様な姿を描いている一方、今村紫紅 や下保昭 などは近江八景の枠組みの中で新たな試みをおこなっている。
音楽と映画
1917年(大正 6年)に作られた『琵琶湖周航の歌 』は、滋賀県民に広く愛唱されている。そのほか、後述 の琵琶湖遭難事故 を歌った『琵琶湖哀歌 』がある。
琵琶湖を舞台とした映画としては、『幻の湖 』[注 79] 、『偉大なる、しゅららぼん 』[注 80] 、『マザーレイク 』などが挙げられる。
環境保全
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(2021年3月 )
昭和40年代 、高度経済成長 に伴って湖水の水質汚濁 や富栄養化 が進んだ[378] 。原因の一つに合成洗剤 、リン酸塩 が挙げられ[379] 、主婦層や女性団体が「石鹸 運動」を起こして対策・改善を求めた[380] 。このため滋賀県は独自に工業排水 と生活排水 を規制する、いわゆる琵琶湖条例(滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例)を制定するに至った[383] 。このほか琵琶湖に関する滋賀県独自の条例としては、『滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例』や『滋賀県琵琶湖のヨシ 群落の保全に関する条例』、景観を守るための『ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例』などがある。
滋賀県は7月1日を「びわ湖の日」に定めており、琵琶湖を保全する様々な活動「びわ活」を推進している[211] 。また、2021年時点、国際連合 持続可能な開発目標 (SDGs)に倣い、2030年に向けた琵琶湖版SDGsである『マザーレイクゴールズ(MLGs)アジェンダ"』策定を進めている[384] 。
1990年から1991年にかけ琵琶湖総合開発事業 の一環として水質測定施設である南湖湖心局(大津市唐崎 沖1.5キロメートル)と北湖湖心局(大津市南比良沖4キロメートル及び高島市今津 沖3.5キロメートル)の3基が設置され、pH 値、溶存酸素量 、水温、流速などのデータが自動送信されていた。しかし、内部の測定機器が老朽化し、必要なデータ量も確保できたとして2006年度までに稼働が停止された。その後も維持費がかかり、船舶の衝突事故のおそれもあることから2018年度に撤去されることとなった。
また、琵琶湖の北方に位置する福井県 若狭湾 岸には、敦賀原発 ・美浜原発 など多数の原発 が立地する。琵琶湖との最短距離は20キロメートル程度であるため、原発事故 で放射能汚染 されれば水の供給に影響する可能性があると指摘されている[386] 。また、ヨシ群落保全条約により、水鳥にとって重要なヨシ群落保全が図られている。ラムサール条約 湿地を指定するための国際的な基準の一つに、「定期的に2万羽以上の水鳥を支える湿地」とあり、琵琶湖はその基準を満たしている。そのことから、1993年6月10日、北海道釧路市で開催された「ラムサール条約第5回締約会議」において、国内で9番目のラムサール条約湿地となった。琵琶湖がラムサール条約に登録されたことを受け、水鳥をはじめとする野生生物と、湿地の保全や湿原の賢明な利用について理解を深めるための普及啓発活動や、調査・研究・監視等を行う拠点施設として「琵琶湖水鳥・湿地センター」ができた。ラムサール条約に指定されたことで、滋賀県全体で、琵琶湖の自然環境への取り組みが強化された[要出典 ] 。
事件や事故
滋賀県内の水難事故 の3分の1が大津市消防局 管内で発生している。大津市消防局が2015年に出動した水難救助件数は21件で、救助件数全体に占める割合は9パーセントであり全国平均の4.4パーセントの2倍以上となっている。前述 したおろしなどの風は、漁船やウィンドサーフィン の事故の原因となることも多く、1941年(昭和16年)には琵琶湖遭難事故 が発生している[注 81] 。
先に触れた 近代における蒸気船の事故としては、まず1874年(明治 7年)に長運丸が唐崎 沖でボイラー の破裂により沈没 し、数十名の乗客が犠牲となっている。その翌年には、満芽丸(大津 所属)が加重積載により小松 沖で沈没し、47人の犠牲者を出した。
このほか、太平洋戦争 の終戦間際に零式艦上戦闘機 (零戦)六二型が琵琶湖に不時着している。1978年(昭和53年)、湖底に沈んでいた零戦が引き上げられ京都嵐山美術館 が修復、その後は和歌山県 「ゼロパーク 」、広島県 「大和ミュージアム 」と引き渡され、展示された[391] 。
その他
鳥人間コンテスト
学習船「うみのこ」(2代目)。
日本遺産
2015年には、「水とくらしの文化」「水と祈りの文化」「水と食文化」の3つのストーリーで構成された「琵琶湖とその水辺景観 — 祈りと暮らしの水遺産」が文化庁 により日本遺産 として認定されている。
スポーツやレジャー
瀬田川 を中心とし複数の艇庫があり、毎年5月には琵琶湖漕艇場 で日本最大級のボート 大会である朝日レガッタ が開催される。1952年にはびわこボートレース場 が日本で3番目のボートレース場として開場している。カヌー やドラゴンボート 、ソーラーボート の競技もおこなわれるほか、ヨット 、スタンドアップパドルボード などを楽しむこともできる。また、2003年には「琵琶湖レジャー利用適正化基本計画」が策定されている。
教育
滋賀県では、1983年の学習船「うみのこ」就航以降、県内の小学5年生を対象とし、びわ湖フローティングスクール と呼ばれる1泊2日の体験学習を実施している。また1981年以降、環境教育副読本 『あおいびわ湖』(小学校)・『あおい琵琶湖』(中学校)・『琵琶湖と自然』(高校)を、ほぼ5年ごとに改訂を加えながら発行している。
研究機関
琵琶湖に関連する研究機関としては、滋賀県琵琶湖環境科学研究センター ・滋賀県立琵琶湖博物館 ・国立環境研究所 琵琶湖分室などがあり、2014年には各部局・機関が連携して研究をおこなうために琵琶湖環境研究推進機構 が設置された。
年表
※文末の「#」は、関連する節へのページ内リンクである。
年間行事・記念日
主な生物種
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(2021年12月 )
※『滋賀県レッドデータブック』2015年版に基づき、希少(亜 )種 には「*」を、絶滅危機増大(亜)種には「**」を、絶滅危惧(亜)種 には「***」を附す[419] また、環境省レッドリスト2020年版に基づき、絶滅危惧IB類およびI類には「⁑」を、IA類には「⁂」を附す。琵琶湖においては絶滅したとされる種には「†」を附す。
動物
アブラヒガイ
ニゴロブナ
ビワヒガイ
ホンモロコ
ワタカ
ビワマス
イサザ
イワトコナマズ
植物
その他
主な港
おごと温泉港
古代 [注 92]
中世
近世 [注 92]
15 km
八幡・舟木
松原
米原
長浜
塩津
大浦
海津
今津
大溝
堅田
大津
近世の主な港。
は九ヵ浦、
は彦根三湊。
長浜市
米原市
彦根市
近江八幡市
大津市
高島市
近代
長浜市
彦根市
近江八幡市
草津市
大津市
高島市
その他
現代
15 km
海津
知内
浜分
今津
北船木
大溝
北小松
和邇
堅田
北山田
志那
木浜
菖蒲
沖之島
柳川
宇曽川
磯
南浜
尾上
大浦
大津
彦根
竹生島
長浜
現代の主な港。
は地方港湾、
は第一種漁港。
注釈
^ 第2位の支笏湖 は、面積は78.7平方キロメートルと小さいが、最大水深が大きいため209億トンの貯水量をもつ。
^ これは海水面の約マイナス18メートルにあたる。
^ 中央と烏丸半島付近の土砂の厚さが同じなのは偶然である。
^ 生物群系 の境界など、異なる環境が接し連続的に入り交じる場所を指す生態学 の用語。生物学の多様性が高い。エコトーン、移行帯とも。
^ 2018年ごろの人工湖岸の割合は37パーセント(南湖では73パーセント)である。
^ 管理は滋賀県と水資源機構が行う。
^ 人工内湖 ( ないこ ) を加えると、2018年現在5.3平方キロメートルである。
^ 木村 (2001 , p. 133) は、これに沖の白石を加え4島としている。
^ 戦国時代 までとも第二次世界大戦後 の大中の湖の干拓までともされる。
^ 例えば、琵琶湖岸に構築物を無許可で設置すると、河川法に基づいて滋賀県から撤去命令が出される。例:「行政代執行の実施結果について」
^ 大津市春嵐一丁目字南1030番1地先を右岸、大津市玉野浦字高砂2189番2地先を左岸とする。
^ 古代湖は世界に20ほどあり、Kiprop (2017) によると、琵琶湖はそのうち5番目に古い湖である。
^ この年代は、古琵琶湖層群の火山灰層の研究により明らかになったもので、以前は500万年前や600万年前とされることもあったが、この研究をおこなった里口保文へのインタビューによると、今後約400万年前との推定が覆される可能性はきわめて低いという。
^ 津 付近に存在した東海湖と一体化した大きな湖だったとする仮説もある。
^ 里口 (2018b , p. 85) は、魚種の連続性の観点などから、この時代にも湖があった可能性についても研究を進める必要があると述べている。
^ このころ、瀬戸内海や大阪湾はまだ形成されていない。
^ 水系が分断される以前、175万年ほど前の洪水では、岐阜の火山灰 が滋賀・京都・大阪を通り淡路島 まで流されている。
^ 琵琶湖が現在でもすこしずつ北上・沈降していると紹介されることもあるが、地震によって地盤が上下することはあるものの、「年間3センチメートルで動いている」といった説明は誤りである。
^ これらの湖底遺跡のうち遺構 を含むものについては、水位の変動、あるいは地滑り や地震 などによる地盤変動により湖底に沈んだものと断定できるが、遺物 のみの遺跡 の場合は、儀式や遺棄により湖底に沈められた可能性も考慮する必要がある。
^ 内湖 ( ないこ ) を含まない本湖のみの面積。
^ 大戸川 なども琵琶湖の水とともに滋賀県から流出しており、これらの集水域を合わせると滋賀県の98%を占めることになる
^ この北向きの逆流により、汚染された南湖の湖水が北湖に流入することが懸念されている。
^ 湖沼技術研究会 (2007 , p. 222) によると、南湖でも反時計回りの環流が確認されたことがある。
^ 2005年には冬の環流も観測されている。
^ 5種類とする場合の周期はそれぞれ、240.9分、71.9分、65.0分、39.8分、32.3分。
^ 南湖は北湖に比して水深が浅いため、冷却が早い。
^ 「湖沼#湖沼の温度 」および「湖水層 (英語版 ) 」も参照。
^ 翌2021年については、2月2日に観測が発表された
^ 2007年3月15日に海津大崎 付近の水深80メートルの地点で16.8メートルの透明度が観測された。なお、この観測は定期観測ではない。
^ 琵琶湖西岸断層帯は東北-南西方向に延び[要ページ番号 ] 、断層帯北部の最新活動時期は約2800年前から約2400年前ごろとされ、活動時には断層 の西側が東側に対して相対的に2mから5m程度隆起した可能性がある。断層帯南部の最新活動時期は1185年(元暦 2年)の文治地震 であった可能性があり、活動時には断層の西側が東側に対して相対的に6mから8m程度隆起した可能性があるとされている[131] 。
^ 亜種 ・変種 を含む。ナガタニシ属 (英語版 ) (タニシ科 )とオグラヌマガイ属 (イシガイ科 )は水系の固有属 。
^ この用語としての導入は、意図性を問わず人の行為によって生物を自然分布外の自然環境に放つことをいう。
^ 詳細は「アユ#コアユ 」を参照。
^ 琵琶湖のアユに随伴して侵入したと想定される国内外来魚には、ここに挙げたハスとオイカワの他に、カワムツ、ビワヒガイ、ワタカ、スゴモロコ、ギギ、オウミヨシノボリなどがあり10種を超えるという。
^ 琵琶湖における絶滅。環境省レッドリスト においては、ガシャモクが絶滅危惧IA類、リュウノヒゲモが準絶滅危惧種に分類されている。
^ コカナダモの大繁殖は富栄養化の時期と一致し、水質悪化の代名詞のように扱われることもあるが、実際は水質が良好な北湖北部の深水域が主な生育地であり、流れ藻をうまく除去することができれば栄養塩 の除去につなげることも可能である。
^ 2014年の調査では、在来種のセンニンモ が最も多く、次いでコカナダモ・クロモ(在来種)・オオカナダモという順であった。
^ 野生生物調査協会 & Envision環境保全事務所 (n.d.) の統一カテゴリにおいては、滋賀県では絶滅危惧I類とされている。
^ ヨシ ・ツルヨシ ・セイタカヨシ の3種が生育している。本記事においては、漢字で葦と書いた場合この3種を区別せず指すものとする。
^ 滋賀県のレッドデータブックでは絶滅危機増大種に指定されている。
^ カブトミジンコはケンミジンコ やノロ など大型ミジンコにも捕食される。
^ 単純に水質改善のためにミジンコを増やせばよいというわけではなく、魚類なども含めた食物連鎖の均衡を考慮する必要がある。
^ 繊毛虫門 少毛綱 [訳語疑問点 ] コレオトリカ目 ストロビリディウム科 。
^ これに対し、浜名湖 のことを遠淡海と呼んだ。
^ 以下「呼称」節の引用文中の強調はすべて引用者による。
^ 吾君:私の主君の意[186] 。
^ これは、近江の表記が公的に国名と定められたと考えられている704年(大宝 4年)の、約40年前である。
^ ゆうせいが。中国文人は絵画を「無声詩」、詩文を「有声画」と呼んだ。
^ 「琵」「琶」は当用漢字 ・常用漢字 外の漢字である[要出典 ] 。
^ 「タイトルに「"びわ湖"」を含むページの一覧 」および「タイトルに「"びわこ"」を含むページの一覧 」も参照。かつては「びわ町 」という自治体も存在した。
^ 元水茎内湖干拓遺跡 (琵琶湖の丸木舟は、鳥浜遺跡 (福井県三方郡 )や加茂遺跡 (千葉県旧丸山町 )の縄文早期のものに次いで古く、2001年時点での縄文後期 - 晩期の丸木舟の出土例は4箇所計21艘に及び、これは日本最多である。太田 (2012 , p. 10) によると、元水茎内湖干拓遺跡 (近江八幡市 )から7隻、長命寺湖底遺跡 (同市)から1隻、松原内湖遺跡 (彦根市 )から10隻、尾上浜遺跡 (長浜市湖北町 )から1隻出土例があり、高田遺跡 ・鴨田遺跡 (長浜市 )からも丸木船やその破片の出土例がある。また、滋賀里遺跡 (大津市 )や元水茎内湖干拓遺跡からは櫂 も出土している。
^ 日本における船舶の発展については「和船 」も参照。
^ 大中の湖 南遺跡(安土町 下富浦) からは飛鳥時代 から奈良時代 の港湾施設 の遺構 が発見されている。
^ 画像は西村中和 『木曽路名所図会』巻一坤、秋里籬島 編、西村吉兵衛(京都)刊、文化 2年(1805年)より。
^ 小学館 (n.d.a) は、歌に諺が由来するのではなく、すでに広まっていた諺を歌に詠み込んだものと推測している。
^ 「馬借 」「土一揆 」を参照。
^ 堅田渡については、平安時代の記録も残されている。
^ 坂本七ヶ関(本籍・導撫関・講堂関・横川関・中堂関・合関・西塔関)・堅田・奥島・船木(安曇川 )・船木(近江八幡 )・沖島 などが挙げられる。
^ 信長が築いた坂本城 ・長浜城 ・大溝城 ・安土城 は、いずれも水城 である。
^ 中井均 は「みずうみの城郭網」において、信長が交通の要所に安土城 ・長浜城 ・坂本城 ・大溝城 を築き、琵琶湖を取り囲むことで琵琶湖水運を掌握しようとしたとの説を唱えているが、杉江 (2011 , pp. 24–45) は実証性の不足などを指摘し否定的な見解を示している。織田信長の琵琶湖支配の独自性に否定的で、豊臣秀吉による琵琶湖舟運の再編を高く評価する杉江の主張について、太田 (2012 , pp. 14f.) は戦国大名との比較すると信長の琵琶湖舟運との関わりの積極性は否定できないとし、信長への過大評価への警鐘として理解すべきであろう と評価している。
^ この内12パーセントは内陸部の船である。
^ ホリは田舟の通路や炊事の場としても利用され、小魚や肥料用の土なども提供していた。
^ 契約は10年ごとに更新され、2015年(平成 27年)の更新では三日月知事と水田雅博京都市公営企業管理者上下水道局長とで年間2億3千万円の契約を締結した(1千万円増額)。
^ 水利権の拡大によって、例えば1994年 (平成6年)夏の全国的な渇水によって阪神地区が大きな影響を受けることはなかった。
^ 山根 (2017 , p. 20) は、魞や梁 による待ちの漁法が縄文時代からおこなわれていた可能性について言及している。
^ このことから橋本 (2001 , p. 250) は、現代の20世紀 末にキャッチ・アンド・リリース を原則とした食慾には基づかない「漁撈」が主流となるまでは、漁撈の基本的な枠組みは17世紀ごろから変化しなかったのではないかと推察している。
^ 近江八景の成立には諸説あり、室町時代 ごろに漢詩に読まれる中で定着したものとも、江戸時代初期に近衛信尹 が瀟湘八景 に倣って選定した(近衛政家 ・近衛尚通 が選定したとの説は、高梨 (2001 , p. 273) によると、2001年現在では否定されている)ともされる。
^ つくば霞ヶ浦りんりんロード 、しまなみ海道サイクリングロード と同時。
^ しのに:しおれての意[354] 。
^ 近江国を舞台とした歌は116首と大和国 ・摂津国 に次いで多く、そのうち近江・淡海の用字を含む歌は36首である。
^ 大曲:大きな湾・入り江の意[357] 。
^ 小弁(しょうべん、生没年不詳)。飛鳥時代 ・奈良時代 の歌人。春日倉老 の子とされることもある。
^ 字義通り80という意味ではなく、沢山の意である。
^ 昔ながらと長等山 の掛詞 。
^ 手間:動作の手を休める合間の意[362] 。
^ 2021年現在、滋賀県立近代美術館 所蔵。
^ 後に屏風に改装され、静嘉堂文庫 に伝えられた。
^ 2021年現在、サントリー美術館 所蔵。
^ 琵琶湖周辺で1年2月に及ぶ長期ロケ が行なわれた日本映画。琵琶湖大橋 でクライマックスを迎える。
^ 万城目学 の小説及び2014年春公開の映画。琵琶湖の神から力を授けられた湖の民の話。
^ 湖上以外でも、JR湖西線 では貨物列車の転覆が2001年までに2回起こっており、列車の不通や徐行 運転の原因にもなっている。
^ a b 独立種と見做さない研究者もいる。
^ a b c d 亜種。
^ a b c d e f g h 2013年に安土城考古博物館 がおこなった湖魚料理の人気アンケートを元に滋賀県ミュージアム活性化推進委員会が選定した琵琶湖八珍に含まれる種(ビワヨシノボリはゴリとして、アユはコアユとして選定)。
^ Nelson (2007 , p. 195) はキュウリウオ目 キュウリウオ科 と分類し、その下アユ亜科 を置く。
^ a b c 特定指定外来生物。『滋賀県琵琶湖のレジャー利用の適正化に関する条例』においてキャッチ・アンド・リリース が禁止されている種。
^ a b 固有属。
^ 通称「ビワコムシ」。
^ a b c d e f g h i j k 2015 - 2017年のいずれかの年にラムサール条約 の1パーセント基準を超えた種。
^ 珪藻植物門の分類は鈴木 & 南雲 (2013) に基づく。
^ 以前別種とされていたスズキケイソウモドキは、2018年現在同一種とされている。
^ a b 2001年以降に合併した市町は、滋賀県 (2018a) に基づいて2018年現在の市に分類した。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p 木村 (2001 , p. 54) において歌集に詠みこまれた湊・浦 として挙げられているもの。
^ a b c d e f g h i 九ヵ浦。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 木村 (2001 , p. 67) において前述の古代の港以外のおもな港 として挙げられているもの。
^ a b c 彦根三湊。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 第一種漁港
^ a b c d 地方港湾 。
出典
参考文献
関連項目
湖沼に関する記事
琵琶湖および周辺の地勢に関する記事
交通
琵琶湖に由来する名称
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