佐藤純彌
佐藤 純彌(さとう じゅんや、1932年11月6日 - 2019年2月9日[1])は、日本の映画監督・脚本家。別名義は佐藤 純弥。幅広いジャンルを手掛け、莫大な予算と豪華なスタッフ・キャストを使用した作品を多数製作したことから“ミスター超大作”の異名で呼ばれる[2]。 来歴東京都出身。太平洋戦争時は、山形県鶴岡市の祖父と叔父の元へ縁故疎開した。当時は勤皇少年で、「自分は二十歳まで生きられていない」と思っていたという[3]。 東京都立第一中学校在学中に学制改革を経て日比谷高校を卒業。その後東京大学に進学し、文学部を卒業した。 1956年に東映へ入社し、東映東京撮影所の映画スタッフとしてキャリアを積む。1961年に『宇宙快速船』で助監督して参加。1963年に『陸軍残虐物語』で監督デビュー。翌年には『廓育ち』で一見性的描写で観客を呼び、本質は社会派の内容の映画も監督を務めた。『魔法使いサリー』では佐藤 純弥名義で脚本を担当した。 1968年に東映を退社後は、ヤクザ映画を中心に監督を担当。1975年の『新幹線大爆破』は公開当初の興行成績は芳しくなかったが、海外での評価は高く、後年レンタルビデオなどでに人気作となった。 以降、『野性の証明』『未完の対局』『敦煌』『おろしや国酔夢譚』『男たちの大和/YAMATO』等の大作の監督を務め上げた。 2000年より地元で開催されている西東京市民映画祭の審査委員長を毎回務めてきた。 2010年、吉村昭の歴史小説が原作の『桜田門外ノ変』を監督。佐藤自身初となる長編時代劇であった。 2019年2月9日午後11時に都内の自宅で多臓器不全のため死去[1][5]。86歳没。 作詞作詞の方面でも才能を発揮している。1968年の『キイハンター』で主題歌「非情のライセンス」から、キイハンターの後番組である「アイフル大作戦」、その後番組「バーディー大作戦」、そしてその後番組であり、1975年から放送された『Gメン'75』と1982年から放送された『Gメン'82』のエンディング・テーマの作詞を務めた。
評価日本・中国合作の超大作『敦煌』で第12回日本アカデミー賞最優秀作品賞、同監督賞を受賞した。『新幹線大爆破』はヨーロッパで、『君よ憤怒の河を渉れ』は中国で大ヒットした。戦後初の日中合作『未完の対局』はモントリオール国際映画祭でグランプリを獲得するなど海外での評価も高く全般的に不動の地位を確立しているが、1997年の『北京原人 Who are you?』は失敗作とされ、その責任を帰せらる形で「監督として終わった人物」と一時は評された[6]。 1960年代から1970年前後にかけてやくざ物で多く監督してきたが、1970年代中盤からはスケールの大きい大作を多く手がけるようになり、2000年代から晩年まで、その手の作品で腕を振るった。 テレビでは、東映製作の『キイハンター』や『Gメン'75』が有名で、深作欣二や鷹森立一らとともにメインで監督を務めた。『アイフル大作戦』『バーディー大作戦』『Gメン'75』『Gメン'82』『スーパーポリス』などでは深作とともに構成を担当し、長らくTBSの同時間帯番組を陰で支えてきた。また、確認できる限りでは『キイハンター』以降、定期的に脚本も書いている[7]。 深作、佐藤と共に仕事をした千葉真一は二人を比較して、こだわりと情熱を前面に出す深作とは対照的に、佐藤は淡々と撮るスタイルの職人監督であると語っている。角川春樹は「佐藤さんは、きちんと物事を論理的に組み立てる。ちゃんと順を追って、何故こうなるのかという筋道を立てて撮っていく。理詰めで悩んだり、撮る時も迷ったり悩んだりしています」と語っている[8]。 『人間の証明』『野性の証明』でカメラを担当した姫田真佐久は「カメラが回っている最中によそ見をする」「演出が苦手」とその著書の中で述べている。なお佐藤自身は最晩年のインタビュー本『映画監督 佐藤純彌 映画よ憤怒の河を渉れ』にて、姫田の見解に対する反証を述べている。 人物父は日本刀学者の佐藤貫一。兄は言語学者の佐藤純一。子にテレビディレクターの佐藤東弥がいる。東京都西東京市に在住。 近藤照男・深作欣二・小山内美江子を含めた4人はウマが合い、時々会って、付き合いを続けていたと小山内は話している[9]。 作品監督※は脚本を兼務。 映画
テレビ番組
CM脚本
出演
著作
参考文献
脚注
外部リンクData ja/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%B4%94%E5%BD%8C Tidak ditemukan |