『鎌倉殿の13人』(かまくらどのの13にん)は、2022年(令和4年)1月9日から12月18日まで放送されたNHK大河ドラマ第61作[* 2]。鎌倉幕府の二代執権となった北条義時を主人公に[* 2]、平安末期から鎌倉初期を描く[* 3]。
2020年(令和2年)1月8日に制作発表が行われ、三谷幸喜が脚本を担当し、小栗旬が主演することが発表された[* 2]。三谷が大河ドラマの脚本を担当するのは『新選組!』『真田丸』に続いて3回目であり、小栗は今作で8回目の大河ドラマ出演にして初主演であった[* 4][注釈 1]。
制作発表の際、今作の題材となる北条家や十三人の合議制について三谷自らが解説を行った。また、2019年放送の『いだてん〜東京オリムピック噺〜』および2020年放送の『麒麟がくる』において出演者の不祥事による放送期間中の降板・代役立て・再撮影が続いたことに触れた[* 5][注釈 2]。
今作の題材について、制作統括の清水拓哉は当初、源義経か北条早雲にしようと考え取材を始めていたが、以前から北条家に興味のあった三谷が「北条義時」を提案したことでこれに決定したという[* 6]。その理由について三谷は「源頼朝が挙兵してから承久の乱までの40年以上にわたる時代を描こうとしたとき、全ての証言者になれる人物は義時くらいだった」と述べている[* 7]。
今作の表題を考案したのは制作統括の尾崎裕和であり[* 8]、「鎌倉殿」とは源頼朝をはじめとする鎌倉幕府将軍を、「13人」とは頼朝死後に発足した集団指導体制「十三人の合議制」を指している[* 9][注釈 3]。NHK大河ドラマにおいてタイトルにアラビア数字(算用数字)が使われたのは今作が初であった[* 10]。
今作では、源平合戦と鎌倉幕府誕生の過程で繰り広げられる権力の座を巡る駆け引きを、ユーモアを交えたホームドラマのような描写とともに[* 11]、徹底して無情で陰惨な粛清劇として描いた[* 12]。三谷は執筆にあたり、日本史を知らない海外の人が見ても楽しめる「神代の時代」のドラマを書くことを目標とし、歴史書『吾妻鏡』をベースに[注釈 4]、特に『ゲーム・オブ・スローンズ』を手本とした[* 14]。また、物語の全体像は『ゴッドファーザー』、部分的に『アラビアのロレンス』『仁義なき戦い』などの影響を受けた[* 15][* 16]。
2020年11月6日、公式Twitterが開設され、第一次出演者の発表日が予告された[* 17]。
2020年11月16日から11月20日にかけて、第一次出演者発表が行われた[* 18][* 19][* 20][* 21][* 22]。その後、2021年(令和3年)4月15日に第二次出演者発表が[* 23]、同年4月27日から4月28日にかけて第三次出演者発表が[* 24]、同年7月8日から7月9日にかけて第四次出演者発表が[* 25]、2022年2月16日から2月17日にかけて第五次出演者発表が[* 26]、同年3月1日に第六次出演者発表が[* 27]、同年6月8日から6月10日にかけて第七次出演者発表が[* 28]、それぞれ行われた。出演者の発表方法は毎回手法を変えて行われ、第一次発表は閣僚発表会見を模した形で三谷が発表する方法を、第二次は発表の6日前に三谷が出演者の似顔絵を描いて役柄について説明する方法を取り、第三次・第四次では登場人物のセリフを先に公開してから発表した。第五次・第六次では出演者の宣材写真を背景にして発表し、特に第五次については出演者の音声コメントが公開され、出演者自身が音声にて配役を発表した。第七次では語りを担当する長澤まさみが発表を担った[* 29]。
2020年11月21日、時代・風俗の考証を担当する専門家チームの陣容が発表された[* 30]。
2021年3月23日、時代考証を務めていた呉座勇一が自身のTwitter上への不適切投稿を理由に降板した[* 31][* 32]。
同年6月9日、撮影開始[* 33]。それに伴い、本作ではスタッフおよび演者のハラスメント防止のため、Netflixなどが導入している「リスペクト・トレーニング」講習が取り入れられた[* 34]。また、大河ドラマ異例の取り組みとしてインカメラVFXの導入[* 35]、単焦点レンズの使用などが行われた[* 36]。
同年7月8日、音楽発表が第四次出演者発表と同時に行われた[* 25]。
同年7月16日、伊東祐親役で発表されていた辻萬長が病気療養のため降板し、代役を浅野和之が務めることが発表された[* 37][注釈 5]。
同年7月20日、番組ロゴが発表された[* 40]。
同年12月1日、メインビジュアルの公開とともに公式ホームページが開設され[* 41]、翌2日には語りも発表された[* 42]。
2022年1月9日、15分拡大[* 43]で初回放送を開始。新型コロナウイルスの影響で前々作『麒麟がくる』の終了が2月にずれ込んだため、前作『青天を衝け』の放送は通常より約1ヶ月遅れで開始されたが、当初の予定から話数が大幅に短縮された事で、本作からは通常サイクルに戻った[* 43]。
今作のタイトルバックの尺は1分45秒(冒頭の語りも含めると2分10秒)で、例年より約1分の短縮となった[注釈 6]。これに伴い、時代考証・プロデューサー陣・演出らスタッフの名前はタイトルバック明けやエンディングに流されることとなった[* 44]。
今作より、台湾のインターネットストリーミング大手であるKKTVと、IPTVサービスを展開する中華電信MODがNHK大河ドラマの同時配信を開始した[* 45]。
本放送の終了後、番組公式Twitterは、放送内容に関連した撮影直後のキャストの音声コメントを「#かまコメ」と題して公開した[* 46]。また、放送内容の元になった史実のエピソードを「#吾妻鏡」と題して紹介した[* 47]。
初回放送視聴率は視聴率17.3%(個人視聴率10.6%)で、いずれも好調であった『麒麟がくる』『青天を衝け』を下回った[* 48]。これは、過去2作と比較すると知名度の低い鎌倉時代を題材としたことも関係しているとされる。一方、初回総合視聴率は25.8%で、前作『青天を衝け』を下回ったものの、16年10月の調査開始以来、大河ドラマ初回タイムシフト最高を更新した[* 49]。また、昨年よりスタートした「NHKプラス」での視聴ユニークブラウザ数は『青天を衝け』の2~3倍を記録した[* 48]。
同年3月13日に放送された第10回では、一瞬ながらスタッフが映り込んでしまうミスがあり、後日番組公式Twitterにて謝罪するとともに、土曜日の再放送では該当箇所を修正して放送した[* 50]。
同年5月8日に放送された第18回の壇ノ浦の戦いのシーンは、VFXシーンが水の表現に定評があるウクライナの製作会社に発注されていたが、戦争の影響により作業の続行が困難となり、急遽国内外の別クルーが加わって何とか仕上げられた[* 51]。
同年9月22日、10月9日は本編を休止し、代わりにトーク特番を放送することが発表された。また、最終回は12月18日に放送され、全話数は48回と決まったことも発表された。大河ドラマが全48話以上になるのは、2017年に放送された『おんな城主 直虎』の全50話以来、5年ぶりであった[* 52][注釈 7]。
同年10月25日、クランクアップ[* 33]。約1年4か月にわたる撮影が終了した。
同年12月18日に放送された最終回(第48回)冒頭では、翌2023年の大河ドラマ『どうする家康』に主演する松本潤が、同作さながらの徳川家康役で出演した[* 53]。翌年の大河主演がその役で前年の大河最終回に出演するという極めて異例な演出は、松本と親交の深い小栗のアイデアによって行われた[* 53]。本作で松本演じる家康が登場したことにより、大河ドラマでは4作連続で「徳川家康」が登場する異例の事態となった[* 54][注釈 8]。
2022年12月31日、通常はマスコミ関係者のみを招いた上で行われる当作品と次回作品の主人公(前述の松本潤)とのバトンタッチセレモニーが、史上初めて『NHK紅白歌合戦』のステージで行われた[* 55]。
2023年2月7日、公式ホームページ、公式Twitter、公式Instagramの公開が、この日の午後6時をもって終了した[* 56]。
今作の全話平均視聴率は12.7%(個人視聴率7.6%、総合視聴率11.8%)で[* 57]、2022年に放映された連続ドラマの中ではほぼ2位の高さをキープした[* 58]。また、全話総合視聴率は20.2%で前年の『青天を衝け』を上回り[* 59]、「NHKオンデマンド」ではこれまで配信された全てのドラマ作品の中で史上最多の平均視聴数を叩き出した[* 59]。スポニチは最終話放送後、「若年層を中心に配信(の視聴率)は好調」だったとし、「大河最高傑作」の呼び声が高いと書き添えた[* 60](全て関東地方・ビデオリサーチ調べ)。
平安時代末期、都では平家が栄華を極めており、伊豆でも平家方の豪族・伊東家が権勢を誇っていた。伊豆の小豪族である北条家の主・北条時政が大番役の務めを終えて京から帰還したことを祝う宴の最中、時政の次男・北条義時は流人・源頼朝を北条の館で匿っていることを兄・北条宗時から聞かされる。源氏の嫡流である頼朝は、父・源義朝が平清盛率いる平家に敗れたことで伊豆に流罪となっていたが(平治の乱)、監視役の伊東祐親が京にいる間にその娘・八重と密通。帰還した祐親がこれに激怒すると追われる身となり、祐親の次男・伊東祐清や宗時の手引きによって北条の館に逃げ込んでいた。戦にも政にも関心の無かった義時は、平家の横暴が許せず頼朝を奉じて挙兵しようと考える宗時や、頼朝に一目惚れした姉・政子によって反平家の戦いに巻き込まれていく。一方、祐親は下人・善児に命じて頼朝と八重の子である千鶴丸を殺害したのち頼朝のいる北条の館を包囲するが、相模の大豪族・大庭景親の仲裁によって北条と和解する。この一件で北条家が頼朝を預かることに決まるが、義時は頼朝の真意を掴みきれず、八重から政子に乗り換えた頼朝に不信感を募らせる。しかし、頼朝から「北条を後ろ盾として挙兵し、平家を打倒してこの世をあるべき姿に戻す」という本意を聞かされると畏敬の念を抱くようになる。
京の都では、平家の総帥である清盛が治天の君・後白河法皇を幽閉する大事件が起きる(治承三年の政変)。一方、政子が頼朝の正室となり長女・大姫も誕生した北条家は穏やかな日々を過ごしていた。この頃、義時は実直な性格ゆえに頼朝から信頼され、本音を聞くことのできる数少ない人物となる。同時期、平家打倒を掲げた以仁王が源頼政とともに挙兵すると(以仁王の挙兵)、頼朝のもとにも叔父・源行家によって以仁王の令旨が届けられる。しかし、この反乱はすぐに鎮圧され、伊豆でも平家の勢力が強化される。京にいる三善康信の報告で自分の身に危険が迫っていることを知った頼朝は、宗時や義時、政子に説得されて平家打倒の兵を挙げることを決意、文覚が持ち込んだしゃれこうべにこれを誓う。その後、義時の奔走で味方となる兵を集めた頼朝は舅である時政や三浦義澄・土肥実平・佐々木秀義ら周辺の豪族たちとともに挙兵し、初戦では八重のもたらした情報によって伊豆の目代・山木兼隆と後見役・堤信遠を討ち取り、中原知親の領地を召し上げて自身が東国の政を行うことを宣言する。だが、続く戦いでは頼みの綱であった三浦勢と酒匂川の増水により合流できず、景親・山内首藤経俊・梶原景時ら平家に与する相模の豪族たちで構成された大軍勢と伊東軍の挟撃に遭って惨敗を喫する(石橋山の戦い)。宗時は命からがら落ち延びる中、「坂東武者の世を作り、その頂上に北条が立つ」という真の志を義時に告げるが、祐親の命を受けた善児の手によって工藤茂光ともども討ち取られる。宗時の死を知り、時政から北条を託された義時は、兄の遺志を引き継ぐことを決意する。
天に守られ敵方の景時に見逃された頼朝は、真鶴半島から海路で安房へと逃れて安西景益の下に身を寄せ、合流した坂東武者たちの前で再起することを宣言、安達盛長を派遣して下総の豪族・千葉常胤を味方とする。義時は頼朝の命で和田義盛とともに上総へ向かい、景時から平家に味方するよう誘いを受けていた大豪族・上総広常を説得する。広常は、景親の放った長狭常伴の襲撃を回避した頼朝の強運と、粘り強く説得する義時を気に入り、大軍を引き連れて頼朝方に付く。広常が加わったことで勢いに乗った頼朝軍は、武蔵に入って平家方であった畠山重忠らも味方とする。同時期、義時は時政とともに甲斐源氏・武田信義の説得に成功し、北条家も坂東武者と頼朝を繋ぐ役目を任されるようになる。その後、頼朝は3万の大軍勢とともに鎌倉に入り、文陽房覚淵に匿われ伊豆山権現社に身を寄せていた政子らと合流、政の拠点となる大倉御所を築き始める。一方、伊東の館は和田・畠山軍に攻められ、八重の再婚相手・江間次郎も八重を庇って善児に殺される。義時は祐親に降伏を促し、想い人である八重を救出する。しかし、このとき鎌倉には清盛の孫・平維盛を総大将とする平家の大軍が迫っていた。同族である信義とともにこれを迎え撃とうと駿河へ出陣した頼朝は、信義の仕掛けた策略によって武田軍に出し抜かれるが、平家軍は時政と義澄の喧嘩によって羽ばたいた水鳥の羽音に驚き、戦わずして敗走する(富士川の戦い)。これを好機と見た頼朝は坂東武者たちに平家軍の追撃を命じるが、多くの御家人に反対されて断念。そこに奥州平泉から弟・源義経が駆け付けると、涙を流して対面を喜ぶ。この戦で大勝した頼朝は、捕縛した景親を処刑した後に平家と通じる常陸の佐竹義政を討伐し(金砂城の戦い)、坂東の勢力基盤を安定させる。この頃、これまでの功績を頼朝に認められて江間の領地を拝領した義時は「江間小四郎」を名乗る。また、御所に入った頼朝は鎌倉殿を名乗り、頼朝に味方した坂東武者も御家人と呼ばれるようになる。
京では清盛が病没し、息子・平宗盛がその跡を継ぐ。この報を聞いた頼朝は、平治の乱で生き別れとなっていた弟たちの前で改めて平家を討つことを宣言する。しかし、弟の1人である義円は、聡明さに嫉妬した義経の口車に乗って叔父・行家とともに鎌倉から尾張へ向かい、墨俣川にて平盛綱に討ち取られる(墨俣川の戦い)。一方、政子が2人目の子を妊娠すると、嫡男が欲しい頼朝は祐親・祐清父子に一度は恩赦を与えるが、祐親の命で殺害された千鶴丸の怨念が嫡男の誕生を阻むという弟・阿野全成の占い結果を信じ、景親と袂を分かち侍所の所司となっていた景時に命じて伊東父子を暗殺する。その後、政子は無事に嫡男・万寿(源頼家)を出産、その乳母夫を比企能員が務めることに決まるが、政子の出世を妬む継母・りくは、懐妊中に頼朝が側女・亀と密通していたことを政子に伝えて後妻打ちを勧める。この提案に政子が乗ったことでりくの兄・牧宗親は後妻打ちを実行するが、義経がこれに協力したことで事態は大事となり、激怒した頼朝によって義経は謹慎処分、宗親は髻を切られるという恥辱を受ける(亀の前事件)。これを聞いた時政は、義兄・宗親に対する処分や反省の色が見えない頼朝の態度に激怒して妻・りくとともに伊豆へ帰国する。同時期、信濃源氏・木曽義仲は北陸で勢力を拡大させつつあった。義時はこれを危惧した頼朝の命で源範頼らと信濃へ向かい、義仲の子・源義高を人質として鎌倉へ送り届ける。その後、義時は実直に政務をこなす中で、幼い頃から一途に思い続けてきた八重と結ばれる。
木曽義仲が北陸で平家軍に大勝すると(倶利伽羅峠の戦い)、平宗盛は安徳天皇と三種の神器とともに都を落ち延びる。これにより、義仲は源頼朝より先に上洛を果たすが、田舎者ゆえに後白河法皇と反りがあわず、後白河が頼朝に東山道の支配権を認めると2人は対立する。これを好機と見た頼朝は、御家人たちに義仲追討を命じるが反発に遭い、次第に頼朝と坂東武者たちとのずれが明らかとなる。京で義仲が平知康を破り(法住寺合戦)、後白河を幽閉した頃、鎌倉では千葉常胤を中心とする坂東勢が、頼朝の嫡男・万寿を人質にして頼朝を御所から退去させるという計画を進めていた。この謀反計画を事前に察知した北条義時は、上総広常に協力を頼んで事態を収束させる。だが、頼朝は京から下ってきた文官・大江広元と謀って無実の広常を謀反の首謀者に仕立て上げ、御家人たちの前で見せしめとして殺害、鎌倉を恐怖で支配する。同時期、義時と八重の間には金剛(北条泰時)が誕生する。その後、義仲を討つため先発隊として出陣していた源義経は、兄・源範頼が率いる本軍と協力し、巧みな情報操作を用いて義仲軍を撃破する(宇治川の戦い)。義仲は愛妾・巴御前を逃がした後、今井兼平とともに近江にて討ち取られる。勢いに乗った義経は西へ進み、後白河の協力や鉢伏山からの奇襲によって平家軍との戦いにも勝利する(一ノ谷の戦い)。一方、頼朝は今後の憂いを取り除くため、大姫の許嫁となっていた源義高の殺害を義時に命じる。義時や政子は、義高を慕う大姫のためにも彼を逃がそうと海野幸氏を身代わりとし、家族や御家人たちの協力を得て逃亡を手助けするが失敗。義高の死を知った大姫は心を閉ざし、政子は激怒する。義時は、政子の言葉を重くみた頼朝の命で、義高を討った藤内光澄を処刑。さらに、義高を焚き付けて頼朝を討とうと画策した武田信義の嫡男・一条忠頼を、謀反の罪で粛清する。
範頼の軍に属して鎌倉を出陣した義時は、九州へ渡って武功をあげ、平家軍の退路を断つことに成功する(葦屋浦の戦い)。また、義経は運の強さで嵐の中の奇襲を成功させ、再び平家軍に勝利(屋島の戦い)。さらに、天才的かつ掟破りな戦術により、壇ノ浦にてついに平家を滅亡に追い込み、宗盛・平清宗父子を捕縛する(壇ノ浦の戦い)。これにより、頼朝は長年の悲願を達成し、涙を流して政子と喜びを分かち合う。しかし、義経は源氏兄弟の分断を謀る後白河に接近し過ぎたことや、天から選ばれた者は2人も要らないと考える梶原景時の讒言によって鎌倉への帰還を許されず、腰越に留め置かれる。義時は、本心では義経との関係修復を望む頼朝の意を汲み、相互不信が募ってゆく頼朝・義経兄弟が対面できるよう奔走する。同時期、頼朝に敵意を持つ叔父・行家は、義経の正妻・里が愛妾の静御前を殺害するために仕向けた土佐坊昌俊による襲撃を鎌倉が送ってきたものであると吹聴して義経を焚き付け、これを信じた義経は鎌倉打倒を決意し頼朝追討の兵を挙げる。これを受けた頼朝は後白河に義経追討の院宣を出させ、義時と北条時政に上洛を命じる。その後、京都守護に任命された時政は、義時の力を借りて後白河に守護・地頭の全国設置を認めさせることに成功する。一方、朝敵となった義経一行は、藤原秀衡が治める奥州平泉へ逃れて安住の地を手に入れたかに見えたが、秀衡は義経の到着から1年も経たぬうちに死去した。頼朝の命で平泉を訪れた義時は、謀反の意思がない義経に静御前の産んだ男子が頼朝の命で殺されたことを伝え挑発するのに加え、異母兄・藤原国衡との兄弟仲の悪さを利用して奥州藤原氏の新当主・藤原泰衡に揺さぶりをかけると同時に、藤原頼衡を殺害しつつ藤原氏の滅亡をほのめかして脅すことで、泰衡を義経追討に導く。義時と頼朝の計画を悟った義経は、里と娘を殺害。泰衡が率いる軍勢に屋敷を囲まれると、義時に遺言を託し、従者の弁慶とともに死去する(衣川の戦い)。頼朝は、鎌倉に届けられた義経の首を前に涙しながらも、義経を匿ったことを理由に大軍を率いて奥州へ出兵、泰衡が河田次郎に討たれたことで奥州藤原氏は滅亡した(奥州合戦)。
政治的面で手を汚し続ける義時の家庭生活は平穏であったが、ある日、八重が川に取り残された孤児・鶴丸(平盛綱)を助けようとして事故死する。失意の義時は、頼朝の上洛に随行した後に政から距離を置くが、政子の励ましを受けて政務に復帰する。一方、上洛して後白河と一対一で会談した頼朝は、全国の守護を請け負うことを認めさせるとともに大姫の入内を約束させ、後白河の崩御後には九条兼実の協力を得て征夷大将軍に任官する。また、次男・千幡(源実朝)が誕生すると乳母に義時の妹・実衣を選び、次期鎌倉殿となる万寿の披露目を兼ねた大規模な巻狩りも実施する(富士の巻狩り)。しかし、その裏では頼朝の政治に不満を持つ曽我十郎・曽我五郎が、岡崎義実とともに頼朝の暗殺計画を企てていた。曽我兄弟は、父・河津祐泰の仇である工藤祐経を殺害するためと偽って烏帽子親の時政から兵を借り、巻狩りの最中に頼朝の寝所を襲うが、頼朝は寝所を抜け出して比企一族の娘・比奈と会っていたため、頼朝の身代わりとして寝ていた祐経を誤って殺害してしまう。義時は、時政が兵を貸したことを不問とするため、この事件を「敵討ちを装った謀反」ではなく「謀反を装った敵討ち」として処理する(曽我兄弟の仇討ち)。同時期、義時は巻狩りで仲を深めた比奈と再婚する。
襲撃事件で天の意志を感じず自身の死期が近いことを悟った頼朝は、自身が討たれたと誤解して鎌倉を守るために鎌倉殿を継ごうと動いた弟・範頼の行動を謀反とみなし、暗殺計画に関わったと言いがかりをつけて修善寺に幽閉する。また、朝廷との結び付きを強めるために1度は頓挫した大姫の入内を再び画策。これに対し、大姫は前に進むことを決めて頼朝や政子と共に上洛するが、丹後局と対面した際に都の恐ろしさを目の当たりにしたことで体調を崩し、死んで義高に会いたいと願いながら病死する。娘の死に焦って疑心暗鬼に陥った頼朝は、すぐさま次女・三幡の入内計画を進める裏で、大姫が死んだのは自身を恨む者が呪詛したためであると範頼の粛清を梶原景時に命じる。範頼は景時の家人となった善児によって修善寺で暗殺され、善児は彼とともに殺害した村人の遺児・トウを弟子とする。一方、頼家には比企能員の娘・せつとの間に長男・一幡が誕生するが、頼朝が跡継ぎを決めずに落馬し昏睡状態に陥ると鎌倉は混乱。次期鎌倉殿に自身が乳母夫を務める頼家を推す能員と、娘婿である阿野全成を推す時政は対立を激化させる。義時は、頼朝死後の新しい政の形を定めるため奔走、頼朝が死去すると政子に頼朝の御台所として次の鎌倉殿を決めるよう促す。その後、自身の役目は終わったとして伊豆へ帰ろうとするが、政子から説得されて頼朝の持仏観音を託されると、鎌倉にとどまることを決める。
政子の後押しで二代鎌倉殿となった源頼家は若年ながらも父を越えようと積極的に政を行い、北条時連(北条時房)や北条頼時(北条泰時)、比企時員といった若い者たちを近習として登用する。しかし、代替わりによる訴訟の増加や正妻・つつじと側女・せつの対立に嫌気が差し、政から逃げるように蹴鞠に没頭する。この現状を見た北条義時は、文官4人と梶原景時の計5人で頼家を補佐する政治体制を考案するが、北条時政と比企能員が味方となる御家人を引き入れたことで宿老は12人へと膨れ上がり、義時自身も政子の説得によって最終的に宿老の一人となる(十三人の合議制)。これを知った頼家は、宿老たちに政の権限が奪われたとして反発し、小笠原長経や中野能成・比企宗朝ら6人の近習たちを重用して彼らに対抗させる。その直後、宿老の一人である中原親能が乳母夫を務めていた三幡の病死を機に出家して鎌倉を離れる。同時期、同じく宿老の景時は安達景盛の妻・ゆうを奪おうとする頼家を諫めたことで逆恨みされ、三浦義村と結城朝光の仕掛けた策略によって66人の御家人から弾劾状が提出されたことで失脚する。このままでは終わりたくないと考える景時は土御門通親からの誘いを受けて京で再起することを義時に打ち明けるが、これを聞いた義時は鎌倉を守るためにこの情報を頼家に報告する。これにより奥州外ヶ浜へ流罪となった景時は、息子・梶原景季とともに一幡を奪取して京へ上ろうとするが義時の説得を受けて断念。義時に坂東武者の世を託して善児を譲り、対する義時も戦場で散ろうとする景時の意を汲んで京へ向かう梶原一族を駿河で討ち取る(梶原景時の変)。さらに、宿老であった三浦義澄や安達盛長が相次いで病死すると合議制は崩壊する。その後、頼家とつつじとの間に次男・善哉(公暁)が誕生して乳母夫が義村に決まると、能員は娘・せつが産んだ一幡が嫡男であると強調。時政も、娘の実衣が乳母を務める千幡を次期鎌倉殿にしようと画策し、千幡の乳母夫で娘婿の阿野全成に頼家に対する呪詛を依頼する。一方、頼家は義時の助言によって人を信じることを心に決め、せつとともに鎌倉をまとめていくことを決意。彼女との子である一幡を嫡男と定める。
鎌倉では頼家が突然病に倒れ、呪詛を行った全成が謀反の罪で常陸へ流罪となる。これを好機と見た能員は、自身に反発して比企の所領を減らそうとする頼家を排除すると同時に北条家を弱体化させるため、全成に頼家が実衣を疑っているという偽情報を告げて頼家に対する呪詛を再び行わせる。これにより、全成は八田知家に討ち取られ、息子・頼全も京にて粛清される。その直後、頼家が急な病で危篤状態となると、義時は比企一族の粛清を決意。関東28か国の御家人を一幡に、関西38か国の御家人を千幡に仕えさせるという能員が必ず拒む案を提示して比企一族追討の大儀名分を手に入れる。その後、能員に対して和議を申し入れ、時政と協力して北条の館へ呼び出した能員を仁田忠常に命じて討ち取る。また、比企の館を攻めて能員の妻・道や娘・せつを殺害し、比企一族を滅亡させる(比企能員の変)。全て計画通りに進めた北条家は千幡を次の鎌倉殿とする準備を進めるが、頼家が奇跡的に病から回復すると状況は一変。義父や妻が北条に滅ぼされたことを知った頼家は政子を責め、忠常と和田義盛に時政の首を取るよう命じる。一方、義時は比企の娘である比奈と離縁し、泰時が密かに匿っていた一幡をトウに殺害させる。さらに、北条家と頼家との間で板挟みとなった忠常が自害すると頼家の鎌倉追放を決意。頼家は修善寺に幽閉され、三代鎌倉殿・源実朝が誕生する。同じ頃、善哉の前に比企尼が現れ、実朝や北条家に対する憎悪を植え付ける。
時政が執権別当となり新たな政治体制が確立した鎌倉に、幽閉中の頼家が畠山重忠や足立遠元ら御家人に揺さぶりをかけ、後鳥羽上皇と通じて挙兵の準備を進めているという報がもたらされる。これを知った義時は頼家の殺害を決意するが、泰時は父に反発する。その後、義時は修善寺に善児とトウを派遣。泰時は頼家を助けるために修善寺へ向かい猿楽師に扮した善児を見破るが、頼家は自ら刀を振るって善児を返り討ちにした後、トウに討ち取られる。また、致命傷を負った善児も、親の仇としてトウに止めを刺される。義時は源氏の血を引く者たちを殺めたことに思い悩み、源頼朝の持仏観音を泰時に託す。同時期、時政はりくの助言により武蔵を手に入れようと画策し、武蔵の豪族で娘婿の畠山重忠と対立する。さらに、りくは後鳥羽の従妹・千世を実朝の正室と決め、息子・北条政範を使者として京へ向かわせる。しかし、上洛した政範は後鳥羽の側近・源仲章にそそのかされて次期執権の座を狙った時政とりくの娘婿・平賀朝雅によって毒殺される。一方、義時は二階堂行政から縁談を進められて彼の孫娘・のえを3人目の妻とするが、彼女には裏の顔があった。
千世が到着した鎌倉では、実朝との婚礼が華やかに行われる。しかし、実朝は自身の知らないところで事が進む現状に一人苦悩する。一方、息子を失い悲観に暮れるりくのもとを訪れた朝雅は、政範毒殺の真相に気づいた重忠の息子・畠山重保に全ての罪を被せ、畠山一族を討つよう進言する。朝雅の嘘を信じたりくが畠山討伐を望むと、時政は義時や時房の制止を無視してこれを承諾。何も知らない重保は、義村によって由比ヶ浜へ呼び出されて討ち取られる。その後、息子の死を知った重忠が二俣川に布陣すると、義時は追討軍の総大将に志願して戦を避けようとするが、武士の意地を通そうとする重忠との交渉は決裂。少数の軍で義時が率いる大軍と激闘を繰り広げた重忠は、義時と組み打ちののち愛甲季隆に討たれる(畠山重忠の乱)。鎌倉に帰還した義時は、親友である重忠を無実の罪で死に追いやった時政の追放を広元とともに画策。畠山討伐の罪を全て娘婿・稲毛重成に被せて処刑することを時政に提案し、これを実行させることで時政に対する御家人たちの不満を増大させる。さらに、政子に恩賞の沙汰を行わせる新たな政治体制を発足させることで、時政から政の権限を奪う。
義時や政子の行動に激怒したりくは義村を味方に引き入れ、実朝を出家させて朝雅を新たな鎌倉殿に据えようと計画。これに対し、時政は失敗すると分かりながらもりくを守るために協力する。一方、義村の密告によって全てを知った義時は、謀反を起こすまで時政を泳がせることで時政追討の大義名分を得ようと画策。実朝が連れ去られたことを確認すると、自身の覚悟を見せるために異を唱える泰時を従え、軍勢を率いて時政の館を取り囲む。しかし、夫を助けたいというりくの必死の懇願を聞いて駆けつけた政子によって館の包囲は解かれ、自害しようとしていた時政も知家に助け出される。その後、実朝や政子の助命嘆願や三善康信の配慮により、出家した時政はりくと共に伊豆へ流罪となる(牧氏事件)。これを機に時政に代わって幕府の政を取り仕切るようになった義時は、京の御家人に命じて全ての元凶である朝雅を追討する。だが、京で勝手に大軍勢を動かしたことに対し、後鳥羽は義時への怒りを露わにする。
束の間の平穏が訪れた鎌倉では、未だ源実朝に世継ぎが誕生しないことを政子や実衣が懸念していた。実朝の妻・千世はこの状況に思い悩むが、実朝から同性愛者であることを告白されると夫婦間に絆が生まれる。一方、北条義時は兄・北条宗時の遺志を実現するとともに戦の火種を無くすため、他の御家人たちの力を削ごうと守護の交代制を画策。さらに、北条家の家人・平盛綱を御家人にするよう実朝に迫るなど鎌倉殿を差し置いて政治を運営する。そんな中、朝廷から閑院内裏の再建が命じられると御家人たちの不満は爆発。義時は、彼らが和田義盛を担ぎ上げて旗頭とする状況を苦々しく思う。同時期、後鳥羽上皇の命を受けた源仲章は泉親衡と名乗って義時の殺害計画を企て、義盛の息子である和田義直と和田義重、甥である和田胤長を加担させて鎌倉に揺さぶりをかける(泉親衡の乱)。これを義盛追討の好機と見た義時は、縄で縛り上げた胤長を和田一族の面前で引き立て流罪にするなどの挑発行為を行い義盛の挙兵を促すが、義盛に信頼を寄せる実朝や戦を望まぬ政子の尽力によって一度は義盛と和解する。しかし、朝比奈義秀ら義盛の息子たちが父の居ぬ間に挙兵したことで戦が勃発。義時を討伐するため鎌倉の市街地で激戦を繰り広げた義盛は、実朝の説得によって降伏したところを義時と示し合わせた三浦勢によって騙し討ちにされる(和田合戦)。これにより、義時は政所別当に加えて侍所別当も兼任するようになり、御家人の筆頭となる。一方、目の前で忠臣・義盛を殺された実朝は自らが積極的に政を行うことを決意し、強大な権力を持つ後鳥羽の力を借りて安寧の世を築くことを宣言する。義時は、朝廷に接近しようとする実朝に危機感を覚える。
鎌倉を源氏の元に取り戻そうとする実朝は北条泰時を側に置いて積極的に政を行い、義時はこれに対抗して執権を名乗る。同時期、後鳥羽の命を受けて京から帰還した仲章は、実朝の見た夢を利用して宋の技術者・陳和卿を接近させ、実朝に唐船の建造を進言。実朝はこれを実行し、後鳥羽は巨大な唐船の完成によって実朝の権威が高まることに期待する。この状況を見て鎌倉が朝廷に乗っ取られると考えた義時は、北条時房に船の設計図を書き換えさせて造船計画を頓挫させる。しかし、この直後に実朝が、大御所になり新たな鎌倉殿を京から迎えることを突如として宣言すると、政子が自身の預かり知らぬところで行動を起こしていたことに気づく。一方、修行先の京から帰還し次期鎌倉殿になろうと息巻く公暁は、自身が就任するのが鶴岡八幡宮の別当と知って驚愕。義時や実衣、公暁の乳母夫・義村も実朝の考えに反発する。これらの意見を抑えるため、政子は時房を伴って上洛。後鳥羽の乳母・藤原兼子と会談し、後鳥羽の皇子・頼仁親王を次期鎌倉殿として下向させることを約束させる。だが、三浦が這い上がる最後の好機を逃すまいとする義村は、何も聞かされていない公暁に、北条が頼家や一幡を殺して実朝を鎌倉殿に祭り上げたことを告げる。父と兄の死の真相を知り幼少期に聞いた比企尼の言葉を思い出した公暁は、実朝と義時の暗殺を決意する。
実朝の右大臣拝賀式を控える鎌倉では、公暁と義村が義時と実朝の暗殺計画を進めていた。これを察知した義時は式の中止を進言するが、実朝から御所を京へ移す構想を聞かされると彼を見限ることを決める。さらに、北条家を追い落とすために頼家の死を調査する仲章から脅迫を受けると、彼の暗殺をトウに命令。自身は太刀持ちとして参加した拝賀式で、実朝を殺害した公暁を討ち取ろうと考える。同じ頃、三善康信から頼家の死の真相を聞き出した実朝は、政子を責めて公暁に謝罪し鎌倉を義時の手から取り戻そうと公暁に提案するが、逆に彼の復讐心を煽ってしまう。その後、義時は予定通り拝賀式へ向かうが、トウが暗殺に失敗して捕縛されたことで仲章に決定的な証拠を握られ太刀持ちの役目も取って代わられる。しかし、仲章はその直後に義時と誤解されて公暁に討たれ、実朝も歩き巫女の予言を信じて自身の天命を受け入れたことで抵抗せず公暁に殺される。難を逃れた義時は鎌倉を自分一人で動かそうとするが、そこに泰時が立ちはだかる。一方、義時の暗殺失敗に焦る義村は三浦館へ逃げ込んできた公暁を殺害、その首を差し出して他の御家人たちの前で義時に忠誠を誓う。また、政子は息子と孫を同時に亡くした絶望で自害を試みるが、トウに説得されて断念。続いて伊豆へ帰ろうとするが義時に止められる。この一件で天に守られていると感じた義時は、仏師・運慶に「神仏と一体となった自身の像」の製作を命じる。
鎌倉殿が不在となった鎌倉では、実衣が息子・阿野時元を鎌倉殿に据えようと画策。源氏の血を引く時元が災いの種になると考えた義時は、義村と組んで実衣を焚き付け、挙兵した時元を謀反人として自害に追い込む。また、実衣の首も刎ねようとするが、政子の説得によって沙汰は先延ばしとなる。同時期、のえも権力欲を露わにし、息子・北条政村を北条の跡取りにしようと画策する。一方、御家人たちの動揺を鎮めるために一刻も早く鎌倉殿を決めたいが自身の動かしやすい人物を下向させたい義時は、危険な鎌倉に親王を下向させたくないが北条の力は抑えたいと考える後鳥羽と政治的な駆け引きを行う。この後、義時は交渉が全く進展しない現状を打開するため、1千騎の兵とともに時房を上洛させて朝廷に脅しをかける。これに対し蹴鞠で勝負を挑んだ後鳥羽は、時房の技量を認めて親王の代わりとなる人物を鎌倉へ送ることを承諾。慈円が鎌倉を訪れ、2歳の三寅(藤原頼経)が新たな鎌倉殿となることを報告する(摂家将軍)。これを聞いた政子は、三寅の後見となるため尼将軍を名乗り、その権限を利用して幽閉中の実衣を助け出す。
京では後鳥羽が、すべて義時の思い通りになった現状に不満を募らせていた。そんな中、三寅が次期将軍と決まったことに腹を立てた源頼茂が挙兵。源氏の跡目争いによって仁寿殿や宝物が焼失すると、後鳥羽の怒りは頂点に達する。これにより鎌倉との戦を決意した後鳥羽は、挙兵の下準備として内裏の再建費用を出すよう鎌倉に命じ、義時と御家人たちの分断を謀る。鎌倉と朝廷の間に不穏な空気が漂う中、父の身を案じた泰時は、頼朝の持仏観音を義時に返却する。その後、後鳥羽は大掛かりな呪詛を行うことで御家人たちの動揺を誘うとともに、鎌倉の御家人たちに義時追討の院宣を発する。そしてついに、兄・義村の命で自身に接近してきた三浦胤義や、西面の武士・藤原秀康に命じて京都守護の伊賀光季を討ち取り、義時追討の狼煙を上げる。一方、義村や長沼宗政の報告によって自身の追討を命じる後鳥羽の院宣が御家人たちに発せられたことを知った義時は、自分一人のために頼朝の作った鎌倉を戦火に晒すことはできないと考え、泰時や時房に後を託して自身の首を朝廷に差し出そうとする。しかし、これまで私欲なく鎌倉を守り抜いてきた弟を死なせたくない政子は、御所に集結した御家人たちの前で真実を明かし御家人たちに決起を促す。この演説によって奮い立ち結束を強めた御家人たちは、官軍と戦うことを決意。広元や康信の忠言によって京への派兵が決まると、泰時は盛綱を含む17騎とともに先発隊として鎌倉を出陣し、叔父・時房や弟・北条朝時らが率いる大軍勢とともに官軍を撃破して入京する。この報を聞いた義時は戦後処理を開始、武士として初めて朝廷を裁き後鳥羽を隠岐島へ流罪と決める(承久の乱)。
人生最大の危機を脱した義時であったが、ある日突然昏倒し意識を失う。その後、一時は政務に復帰するが、運慶が自身を模して彫ったという醜い姿の像を斬ろうとした直後に再び倒れる。医師の診断で毒を盛られたと知った義時は、後妻・のえが犯人であると確信する。この後、義時の追及を受けたのえは、政村ではなく泰時を跡継ぎと決めて自身に冷たく接してきた義時への不満を吐露し、毒の入手先が政村の烏帽子親である義村であると告げて屋敷を出る。これを聞いた義時は、義村に鎌を掛けて本音を聞き出した上で、親友として義村に息子・泰時への助力を託す。同時期、父の行動を無駄にせず新しい世を作ろうとする泰時は、妻・初の支えを得て、学のない御家人たちでもわかる武士が守るべき定を作り始める(御成敗式目)。一方、義時の見舞いに訪れた政子は義時と昔語りをする中で、息子・頼家が病死ではなく義時の命によって殺害されたことを知る。さらに義時から、先の戦で廃位させた後鳥羽の血を引く帝を復権させようという動きがあるため幼い先帝の命を奪おうとしていることを告げられる。これを聞いた政子は、義時が泰時のために全ての怒りや呪いを背負おうとしていることを理解した上で、これ以上弟が手を汚さぬよう、体調を崩した義時の前で解毒薬を捨てる。これを見た義時は、泰時に頼朝の持仏観音を渡すよう政子に託した後、苦しみつつも政子に見守られながら息を引き取る。
実在人物の歴史的事項については、当記事ではなく各人物の当該記事を参照のこと。
劇中では人名の呼称を「北条義時(ほうじょう の よしとき)」のように「苗字 + の + 名前」としている場合がある[注釈 9]。
★印は13人の合議制を構成する宿老(御家人)を示す。
総合テレビでの放送分はNHKプラスで同時配信され、放送後7日間は見逃し視聴が可能。
1か月分の放送をダイジェストにした「20分でわかる!『鎌倉殿の13人』」を放送。ナレーターは木村昴。放送内容は前後編に分けてNHKの公式YouTubeでも公開。
また、各回のダイジェストの初回放送時はそれまでの放送分も合わせて放送された。これらの放送はNHKプラスで同時配信され、放送後7日間は見逃し視聴が可能であった。
2022年12月29日に総合で、12月31日と1月2日にBS4Kで放送(4部構成)。