本作はオリコンアルバムチャートにて最高位第1位を獲得、再結成グループによるアルバムの第1位獲得はかぐや姫のアルバム『かぐや姫・今日』(1978年)以来30年10か月ぶりで史上2組目となったほか、前回の第1位から今回の第1位獲得までの14年10か月というインターバル期間は、CHAGE and ASKAの8年6か月を上回り、19年半ぶりに記録を更新した。
背景
UNICORNはアルバム『BOOM』(1987年)にてメジャー・デビューを果たし、2枚目のアルバム『PANIC ATTACK』(1988年)の制作中にすでに脱退していたキーボード担当の向井美音里に代わって阿部義晴が正式にメンバーとして加入することになった[3]。阿部が正式に加入して制作された3枚目のアルバム『服部』(1989年)はオリコンアルバムチャートにて最高位3位となり、また同作を受けたコンサートツアー「UNICORN WORLD TOUR 1989 服部」において7月10日に初の日本武道館公演を達成することとなった[4]。その後フジテレビ系バラエティ番組『夢で逢えたら』(1988年 - 1991年)の主題歌として使用された「働く男」(1990年)がオリコンシングルチャートにて最高位3位となりシングルとしては歴代最高の売り上げを記録、また同曲が収録された4枚目のアルバム『ケダモノの嵐』(1990年)はオリコンアルバムチャートにて最高位1位を獲得し、UNICORNのオリジナル・アルバムとしては歴代最高の売り上げを記録した。
7枚目のアルバム『ヒゲとボイン』(1991年)を受けたコンサートツアー「UNICORN WINTER TOUR 1991-1992 "THE WAR without STAGE MANAGER/舞監なき戦い"」は52都市全77公演を実施しUNICORNとしては歴代最長のツアーとなった。しかしアルバム『ヒゲとボイン』の制作中にメンバー間で確執が生まれ、プロデューサー的な役割を担っていた阿部はストレスによって失調をきたしメンタル面のケアのため暫し休養を取ることとなった[5]。その後8枚目のアルバム『SPRINGMAN』(1993年)制作中にドラムス担当の川西幸一がバンドから脱退することが発表された[6]。川西の脱退以降、同アルバムは残ったメンバー4人で完成させ、同作を受けたコンサートツアー「UNICORN TOUR 1993 "4946"」を川西の代わりにDr.StrangeLoveに所属していた古田たかしがドラムスを担当する形で40都市全59公演を実施。しかし同年9月21日に放送されたニッポン放送ラジオ番組『電気グルーヴのオールナイトニッポン』(1991年 - 1994年)の特別番組に電気グルーヴの代わりにUNICORNメンバーが出演し解散を発表[7][8]。同放送においてドラムスが入っていない状態で「すばらしい日々」(1993年)のアコースティック・バージョンを演奏したことが最後となり、UNICORNは解散することとなった[9]。
本作のアートワークはデザイナーの木村豊が担当している[57]。木村はコンサートツアー「UNICORN WORLD TOUR 1989 服部」のポスターデザインやアルバム『SPRINGMAN』のキャラクターデザインなど解散前からUNICORNの作品を手掛けていたが、本作のアートワークを担当するにあたって奥田以外のメンバーと初めて顔を合わせることとなり、また初めて奥田以外のメンバーと打ち合わせを行ったと述べている[58]。アーティスト写真を撮影するにあたり奥田から「メンバー全員で同じ恰好をしたい」との要望があったため、木村は考慮の末にジミ・ヘンドリックスと横山やすしのコスプレに決定、またそれによってメガネとギターを燃やすというヘンドリックスのパロディーを撮影することになった[59]。それによって写真のテーマが「燃える」になっていたことからアルバム・ジャケットもディープ・パープルのアルバム『紫の炎』(1974年)のパロディーを木村が提案することとなった[59]。しかしロゴ・デザインだけは同作と同一にすることが問題となったため、スタンリー・キューブリックの映画『時計じかけのオレンジ』(1971年)のパロディーへと差し替えが行われた[59]。また、アーティスト写真のアウトテイクの中に「ガラス越しにメンバーがいる構図」があったことから、ドアーズのアルバム『モリソン・ホテル』(1970年)のパロディーとしてシングル「WAO!」のジャケットに使用された[59]。歌詞カードでは川西幸一が「帰ってきたヤメマン」と表記されているほか、本作から堀内一史のクレジットが「EBI」で統一されるようになった。
ツアー
本作を受けたコンサートツアーは、「UNICORN TOUR 2009 蘇える勤労」と題して2009年3月5日の山形県県民会館公演から5月31日の沖縄市民会館公演まで、24都市全37公演が行われた[60]。
その後2枚目のシングルであった「デーゲーム」(1989年)が演奏され、音楽評論家の平山雄一は「最も予想を裏切った選曲の一つ」であると述べている[63]。「最後の日」では手島がブラス・セクションをシンセサイザーで弾き、「PTA~光のネットワーク~」では川西とEBIによるラップパートが挿入されており、平山は同曲も「予想外の選曲」であったと述べている[63]。その後本作からシングルカットされた「WAO!」が演奏され、続けて「BLACKTIGER」「R&R IS NO DEAD」「サラウンド」の3曲演奏後、1枚目のシングルであった「大迷惑」(1989年)が演奏され会場の盛り上がりはピークに達することとなった[64]。その後ドラムス担当として古田たかしが参加、奥田による「歴史的な和解です。今ここでユニコーンが初めて仲直り」とMCを行った後にツインドラムで「ヒゲとボイン」(1991年)および「車も電話もないけれど」が演奏され、「HELLO」の演奏を以って本編が終了となった[65]。アンコールの1曲目は「人生は~CSA~上々だ」であり、阿部が大々的にフィーチャーされた状態で「人生は上々だ」の途中に「CSA」が挿入される展開で演奏され、アンコール2曲目として解散前のラスト・シングルとなった「すばらしい日々」(1993年)が演奏され公演は終了となった[60]。