出典 は列挙するだけでなく、脚注 などを用いてどの記述の情報源であるかを明記 してください。記事の信頼性向上 にご協力をお願いいたします。(2010年12月 )
伊武 雅刀 (いぶ まさとう、1949年 〈昭和 24年〉3月28日 [7] [1] - )は、日本 の俳優 、声優 、ナレーター 。東京都 中野区 野方 出身[6] 。
来歴
1949年 に東京都 で生まれ、旧日本国有鉄道 職員だった父の転勤に伴い、当初は茨城県 水戸市 近く、その後は土浦市 の官舎で暮らす[6] 。父は出世が早く伊武が小学1年生の時に助役になった[6] 。父は「これなら独立してもやっていける」と日本国有鉄道退職後は水商売を始めてほとんど家に帰らず、それを見かねた母方の祖父が家族と同居[6] 。小学1年生の終わりに東京都 中野区 野方 に転居[6] 。
私立東邦高等学校 に進む[8] 。映画スターに憧れ、新聞で目にしたNHK名古屋放送局制作のテレビドラマ『高校生時代』(後の『中学生日記』) のオーディション を受け[8] 、同ドラマの1967年 度放送分に森本レオ と共に出演した(森本もこのドラマで俳優デビューしており親交が深い)[9] 。これが転機となり、本格的に俳優を志すため同校を中退して東京へ戻り、現代演劇協会付属現代演劇研究所「劇団雲 」に入団[8] 。
しかし1年で同劇団を“ドロップアウト”し、今度は俳優小劇場 の養成所に入るもこちらも半年で辞めてしまう[10] 。この当時、「君は声はいいけれど、声だけだな」と評価されるなど、声の魅力は弱冠20歳にして認められるものがあった[11] 。
その後、仲間と新たに旗揚げした劇団に移る[8] 。この頃はトイレ風呂共同の3畳一間に住んだり、痔を患いながら日雇いの工事現場で廃材を運ぶ肉体労働で生計を立てるなど苦しい生活を経験した[8] 。そんな折、渡辺貞夫 のラジオ番組のパーソナリティのオーディションを受けたところ、本人はジャズなどの見識はなかったが声の良さを買われて合格、ラジオ出演とともにCMのナレーションの仕事なども入るようになった[8] 。以前は黒沢事務所、プロダクション・エムスリー にも所属していた[2] [12] [13] 。
プロダクションエム・スリーでの先輩にあたる堀勝之祐 から勧められたことをきっかけに、1970年代は意欲的に声優 の仕事にも取り組む[12] 。『宇宙戦艦ヤマト 』シリーズのデスラー 総統役[9] が当たり役かつ出世作となったほか、多数の外画吹き替え にも出演したが、あくまでも声優業を行う理由は「稼ぐため」で俳優への志は強く、当時の伊武にとって声優活動は本意ではなかったという。
1976年 末頃、ラジオで知り合った小林克也 からラジオ番組への出演を持ちかけられる。これがラジオ大阪 の桑原茂一 プロデュースの番組「スネークマンショー 」で、この中での小林との掛け合いによる過激で当時のタブー ギリギリの内容のコントがリスナーや放送業界内でも評判となった。この番組は後にTBSラジオ ほかJRN系列 で全国ネットとなり、さらにYMO によってコントがレコードに収録される に及んで音楽業界にまで一気に知名度が上がった。
1982年『ウィークエンド・シャッフル 』で映画デビューを果たす[9] 。
2002年10月〜2009年3月にはラジオ番組『JET STREAM 』の機長(パーソナリティ)を務め、初代パーソナリティ城達也 のスタイルを踏襲した語り口で好評を博した。なお伊武は当番組担当前に「スネークマンショー」において、本番組のパロディとして、「JET STRIP」のパーソナリティ“欲情達也”を演じた経験がある。
人物
俳優としては悪役 や腹黒い役で名を馳せたが、コミカルな役柄もこなしている。
趣味・特技は一人でフラッと旅をすること、レコード鑑賞、酒[4] [13] 。
現在の「雅刀」という芸名の由来は、声優の井上瑤 から伊武雅之時代に「名前の最後の字を2画の字にするといい」とアドバイスを受けたことによる[14] 。「刀」は時代劇にも将来出演したいことからちょうどいいと選んだという[3] 。
3人兄弟の長男で妹が2人いる[6] 。既婚者で娘がいる[13] 。
代役・後任(声優)
俳優業が活動の主体になってからは、声の仕事(持ち役の再演など)で代役が立てられることがある。ただし、2009年のインタビューにおいて「(オファーが)来たらやりますよ。でもギャラが高いと思われているから(笑)。こないんじゃない?」と語るなど、依頼があれば引き受ける姿勢であることを明かしている[15] 。そのほか、『宇宙戦艦ヤマトシリーズ 』のデスラー は自身の原点であるという理由もあり基本的には続投している。
リメイク等で他の声優陣も総入れ替えされた作品はこの趣旨から外れるため、この表には記載しない。
出演(俳優)
テレビドラマ
映画
WEBドラマ
オリジナルビデオ
コンバってんねん
楽しいテレビ ※スネークマンショーの映像作品
ミュージックビデオ
バラエティ
CM
出演(声優)
テレビアニメ
劇場アニメ
OVA
ゲーム
テレビアニメ版の音声を使用したライブラリ出演
吹き替え
海外映画
海外ドラマ
海外アニメ
ナレーション
ラジオ
CM
音楽
飯場の恋の物語(1982年 6月21日、作詞:秋山道男 、作曲:細野晴臣 )
子供達を責めないで(シングル、1983年 8月25日 、作曲:H. B. Barnum 、原詞:Ivan Reeve、日本語歌詞:秋元康 )
原曲はサミー・デイヴィスJr. の同名曲("Don't blame the children")で、原曲同様に歌ではなく演説になっている。原曲が「子供達が罪を犯してしまうのは、我々大人達にも原因があるのではないか? 」というメッセージソングに対して、「自分も子どもの時代があったにもかかわらず、『子どもは嫌いだ』と叫ぶ姿が一番大人気ない 」というパラドキシカルなコミックソング へと変えられている。
秋元康は亀淵昭信 から依頼を受け訳詞を行ったが、原詞の直訳ではひねりがないと逆説的な詞にしたという[66] 。
歌詞の内容があまりにも刺激的であるため、発売元であるCBS・ソニー(現・ソニーミュージックレコーズ) は、発売前に十代の若者を対象とした試聴会を開き、アンケート調査を行った[67] 。その結果、中学生から大きな反応があった[67] 。シングルはオリコン 最高21位を記録。累計売上は30万枚以上[67] に達した。
テレビ番組では『夜のヒットスタジオ 』(1983年10月31日放送)および『オレたちひょうきん族 』のコーナー「ひょうきんベストテン」にて披露されている。なお、夜ヒットでは詞に加えて一部にアドリブが入っている。
台詞の出だしは、『星雲仮面マシンマン 』(日本テレビ 系)第1話で、プロフェッサーK(天本英世 )の台詞に引用されている。
カップリング曲 は「パパと踊ろう」。こちらもアンドレ・クラヴォー の「パパと踊ろうよ "Viens Valser avec Papa"」のカバーだが、父と娘の団欒を描いた歌詞に、アナウンサーが喋るニュースの音声を被せる等のアレンジが施され、父親の威厳が失墜している昨今を皮肉った内容になっている。
1983年12月1日には本作のアンサーソングとしてRVC から「大人達を責めないで」(作詞:つるまけん、作曲:小林信一、歌:阿陀夢ひろし)が発売された[68] 。
咲坂と桃内のごきげんいかが 1・2・3(アルバム『スネークマン・ショー』よりシングルカット 1981年、作曲・細野晴臣)
小林克也と共に、「スネークマンショー」内のキャラクター であるアナウンサー・畠山桃内として、ラップや早口言葉、物真似を披露している(デスラーの声も聴くことができる)。その後、2002年 に細野と高橋幸宏 が結成したスケッチ・ショウ が、アルバム「Audio Sponge」でカバーした。
Mon-jah(アルバム 1983年)
イブのマンボで1-2-3/何んかちょうだい (シングル 1984年)
野球小僧 (シングル 1991年)
カバー曲。ミズノ の野球用品のコマーシャルに使用された。
『テオレマ・16のコンポジション』ミラノから東京に活動拠点を移した音楽家岩村学 のCDにポエトリーリーディング で参加。
ラジオヘブン RADIO HEAVEN (CD 1992年 キューンミュージック ) 同年放映の「大帝国劇場」との連動。
その他ゲストミュージシャンにドイツ映画音楽界の巨匠ペーター・トーマス(アルバム2002年)
脚注
注釈
^ 17歳でヘンリック・イプセン 作の芝居をしていた時に名付けられた[3] 。
^ (※「生食かまぼこ」、「生食ごぼてん」、「生食かくてん」、「生食ちくわ」、「生食まめちく」、「サラダスティック」の総称)
^ (※中華惣菜シリーズの総称)
^ (※つみきが出演したCMは1990年まで放映。1992年はおせち 蒲鉾(「特上はも板」・「特上鯛蒲鉾」)に関するCMを放映したが、出演者は居なかった)
出典
外部リンク
シリーズ キャラクター ドラマ
関連楽曲
関連人物
ステージ 関連番組 コンサート 特別番組 関連項目
昭和 平成 令和 映画・OV・その他 海外 アニメ・吹き替え