蜷川 幸雄(にながわ ゆきお、1935年(昭和10年)10月15日 - 2016年(平成28年)5月12日)は、日本の演出家、映画監督、俳優。位階は従三位。勲等は文化勲章。桐朋学園芸術短期大学名誉教授、文化功労者。
桐朋学園大学短期大学部芸術科教授、彩の国シェイクスピア・シリーズ芸術監督、Bunkamuraシアターコクーン芸術監督、桐朋学園大学短期大学部学長(第6代)、桐朋学園芸術短期大学学長(初代)、桐朋学園芸術短期大学芸術科特任教授などを歴任した。
埼玉県川口市本町出身。両親は富山県出身(父親は旧上新川郡大久保町出身、母親は富山市小中出身[2])。生家は洋服店で、父親は川口オートレース場のオーナーだったこともある。小中学生時代は近所に下宿していた後の立教大学総長浜田陽太郎が家庭教師であった。
1年の留年を経て開成高等学校を卒業。画家を志して東京芸術大学美術学部を受験するが失敗。将来の進路に迷っていた時、偶然「劇団青俳」による安部公房『制服』の公演に接し、衝撃を受けて「劇団青俳」に参加する[3]。俳優として活躍していたが「自分は演出に向いている」と悟り劇団を結成し演出家に転向(それ以降もある時期までは俳優業は続けていた)。アングラ・小劇場運動盛んな時期に演出家としてデビューし、若者層を中心に人気を集める。1970年代半ばから商業演劇に活動の場を移し大劇場でのダイナミックな演出で話題作を次々と発表していった。1990年代以降は中劇場の空間を好んで使っている。
蜷川の演出作品は、清水邦夫、唐十郎、井上ひさし、野田秀樹、岩松了などの現代劇からギリシャ悲劇やシェイクスピア、チェーホフなど海外の古典・近代劇に至るまで、多岐にわたる。鮮烈なヴィジュアルイメージで観客を劇世界に惹き込むことを得意とする、現代日本を代表する演出家の1人として海外でも評価が高く「世界のニナガワ」、「蜷川先生」とも呼ばれる。
起用する出演者はトップスターや実力派俳優から人気アイドルまでと幅広く、意表をついたキャスティングで話題を呼んでいる。
蜷川は愛煙家で短気な気質でもあり苛烈な演技指導の厳しさでも知られ、「口よりも手よりも先に、物(靴や金属製の灰皿など)が飛んでくる」と言われる程であった[4]。一方で躁うつ病を患っていた俳優には穏やかな表情で見守るなど[5]、人情的で心優しく「他人に対しても同様に、自分に対しても厳しい」姿勢で仕事に取り組んでいたため、数多くの俳優やスタッフから慕われた。彼の指導を受けたことで役者としての実力をつけた俳優やタレントは数多い。「一人でも手を抜いたら舞台は壊れる。“全体に気を配っているぞ”という意思表示だよ」と生前語っていた。
現代演劇のフィールド外でも、小澤征爾の指揮による歌劇『さまよえるオランダ人』(リヒャルト・ワーグナー作曲)、宇崎竜童作曲によるミュージカル『魔女の宅急便』、尾上菊之助の依頼を受け菊五郎劇団と組んだ歌舞伎『NINAGAWA十二夜』などを演出、ほかにも映画、テレビドラマ、コンサート、ファッションショーなど、さまざまな媒体や舞台での演出を手掛けている。エッセイ集も出しているが、蜷川自身は文章を書くことは楽しくはないが断れずにやっている、という。
『私の履歴書』によると、俳優時代の蜷川は「劇団青俳」の木村功や岡田英次などに可愛がられたという。そして、演出家として頭角を表しつつあったある日、出演していた時代劇『水戸黄門』[注釈 1]を見た太地喜和子から、俳優としての演技にダメ出しされたことを切っ掛けに演出家一本に絞ることにしたという。
晩年は病気がちになり、2013年には狭心症により心臓バイパス手術を受け、その後は肝臓などの不調が続き、2014年11月、さいたまゴールド・シアター香港公演の際、滞在先のホテルで下血し緊急入院。チャーター機で帰国する事態となっている[6]。長年の喫煙習慣による肺疾患もあり、帰国後は車椅子と酸素吸入器を手放せなくなった。2015年12月半ば、軽い肺炎で入院となりリハビリに励んでいたが、復帰は叶わなかった[7]。
2016年5月12日(木曜日)午後1時25分、肺炎による多臓器不全のため、都内の病院で死去[8]。80歳没。同年5月15日に東京・青山葬儀所で通夜が営まれ、田原総一朗、松本幸四郎、北大路欣也、宇崎竜童・阿木燿子夫妻、本田博太郎、名取裕子、吉田鋼太郎、堤真一、東山紀之、中嶋朋子、木村拓哉、宮沢りえ、綾野剛、藤原竜也、小栗旬、鈴木杏、勝地涼、亀梨和也、溝端淳平、岡田将生、多部未華子、藤木直人、前田敦子ら演劇関係者やファン約1600人が弔問に訪れた。5月16日の告別式では、平幹二朗、大竹しのぶ、吉田、小栗、藤原の5人が弔辞を読んだ[9]。渡辺謙、二宮和也、松本潤、生田斗真、松坂桃李らも参列した。出棺時は、Libera(リベラ)のサンクトゥスが流れた。
2016年6月10日、日本政府は生前の蜷川が演劇文化の発展に尽くした功績を讃え、没日の5月12日付で従三位に叙することを閣議決定した[10][11]。
2016年7月、蜷川幸雄の作品記録の承継・著作権・肖像権および商標権の管理を行う「ニナガワカンパニー」が妻・蜷川宏子(真山知子)を代表に設立。
妻は元女優で現在はキルト作家の真山知子で、2人の娘がおり、長女に写真家として活動している蜷川実花、姪に女優の蜷川有紀、蜷川みほがいる。
長野県軽井沢町には別荘があり、家族で度々滞在した(妻との新婚旅行も軽井沢であった[12])。娘実花によれば、軽井沢は「私達家族にとってとても思い出深い大切な場所」だという[13]。
※基本的には同プロダクションでの再演作品の明記(海外公演を除く)、および稽古場発表などの形態による上演作品の明記はしていない。
菊田一夫演劇賞、文化庁芸術祭演劇部門大賞、テアトロ演劇賞、芸術選奨文部大臣賞、読売演劇大賞(第20回に大賞と最優秀演出家賞[注釈 2])、松尾芸能賞、毎日芸術賞、朝日賞[16]、朝日舞台芸術賞(グランプリ、特別大賞)、紀伊國屋演劇賞個人賞など、多数の受賞がある。他に第53回菊池寛賞、埼玉県民栄誉章、川口市市民栄誉賞などを受賞。海外では、1992年に英国エジンバラ大学名誉博士号、2002年に英国名誉大英勲章第三位。2005年にWalpoleメダル、2010年に米国ケネディ・センター国際委員会芸術部門ゴールド・メダルを受章。
2001年に紫綬褒章、2004年秋に文化功労者、2010年秋に文化勲章を受章。2016年に従三位[10]。